摂津国有馬郡の有馬温泉(温湯)は、畿内にある古代以来の名湯であり、豊臣秀吉はいくたびかここに入湯した。天正六年(一五七八)二月、播磨三木城の別所長治が信長に反したとき、秀吉はただちに兵を進め、長治の支配下にあった有馬郡を制圧した。このときすでに秀吉は入湯したかもしれない。長治は籠城二年、糧道を断たれながらも奮戦したが、ついに天正八年正月自害して城を明け渡した。秀吉は三木落城直後の二月、早くも有馬に入湯して戦塵(せんじん)を洗いおとし、同じ年には湯山(有馬)に禁制も下した。
以来秀吉はしばしば有馬をおとずれた。柴田勝家を賤ヶ嶽に破った後の天正十一年八月、つづいて天正十二年八月、同十三年正月に入湯しており、さらに同年九月には石田三成・増田長盛・大谷吉継や堺の豪商今井宗久(そうきゅう)・同宗薫(そうくん)らを従えて入湯している。その後も天正十五年(この年の入湯が疑わしいことはあとに述べる)、そして同十七年から文禄三年(一五六〇)までは毎年入湯しており、いまも有馬温泉には秀吉にちなんだ旧跡が多い。
ところで宝塚市域にも、秀吉の入湯のおりに清澄寺(清荒神)が菓子折を献じたという記録や、小浜・米谷に秀吉入湯にまつわる口碑が残っている。
第一の記録では、天正十五年(一五八七)七月九州征伐を終えて大阪に帰った秀吉が、十一月有馬に入湯している。その入湯中に清澄寺から入湯の見舞として、菓子折を献じたというものである。しかしこの年に秀吉が有馬に入湯したというたしかな史料はない。結論をさきにいえば、この年の入湯は疑わしい。
清澄寺には「秀吉公禁制書」・「秀吉公御朱印」・「七まかりとの(殿)御状」と箱にしるされた三通の文書がある。それとは別に「関白秀吉公家臣書翰(しょかん)五通」としるした、明治六年製作の木箱に納められた五通の文書もある。この二箱八通の文書のうち、「秀吉公御朱印」とある文書は、清澄寺が菓子折を贈ったことに対する礼状である。「七まかりとの御状」は、天正十五年十一月二十三日付のもので、秀吉の正室北の政所のおばにあたり、前田利家夫人となった七まがりどのが、清荒神にあてて田地三反を寄進するという内容のものである。さらに「関白秀吉公家臣書翰」のなかには、「関白様御湯治」のお見舞のための御札折ひとつの到来を披露したことをしるした、佐野十右衛門尉綱正の書状がある。このような一連の文書を結びつけて、天正十五年に秀吉が有馬に入湯したとし、そのとき寺から菓子折をお見舞として贈り、これに対して田地三反の寄進をうけたなどという説が現在もおこなわれている。
しかし右に述べた「秀吉公御朱印」状は、じつは豊臣秀次の朱印状である。また佐野綱正ははじめ三好康長に仕え、のち豊臣(三好)秀次の家臣となった人であるから、綱正の書状に「関白様御湯治」とある関白は、秀吉よりむしろ秀次であるとみた方がよい。したがって「秀吉公御朱印」としるす菓子折の受贈に対しての礼状である秀次の朱印状と、それと関連のある同日付(十一月九日)の佐野綱正の書状とは、秀吉になんら関係はない。むしろ文禄元年(一五九二)の秀次入湯のときのものとみるのが妥当ではあるまいか。