秀吉の入湯にまつわる口碑

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 秀吉の入湯にまつわる口碑は、小浜にも残っている。秀吉が正室北の政所とともに有馬に入湯する途中、小浜毫摂寺に泊った。そのとき土地の名物「川面の水飴(みずあめ)」を賞味し、付近の山中家の庭にある玉の井戸からくんだ水で、千利休が茶を立てたという。北の政所同伴の入湯ということであれば、この話は文禄三年十二月のことをいっているのかもしれない。このときには織田信雄(信長の次男)・長束(なつか)正家・増田長盛・石田三成・浅野長政らをひきいての入湯であったが、水飴・玉の井の話はおそらく口碑の域をでまい。
 また文禄年間のこととして、米谷にもまた口碑が残っている。米谷を通過した秀吉が村内の一里塚のあるところ、北向(きたむき)薬師堂境内の老松に馬をつないで休息した。このとき米谷の大庄屋が接待のために大いに働いたので、かれに一里塚にちなんで塚本の名字と帯刀が許されたという話である。
 しかし、この話も単なる口碑であろう。慶長十年(一六〇五)の摂津国絵図によってこの付近をみると、ふたつの地点に一里塚の印が付せられている(二五三ページ図5参照)。伊丹から安倉を通って北上する道が瀬川―小浜―生瀬を結ぶ幹線道路と合流する地点、および生瀬村方向に武庫川を渡りきった地点のふたつであって、米谷村には口碑にいうような一里塚の記載はみられない。だが正保二年(一六四五)の国絵図になると、米谷村のところにも一里塚の記載がみられるようになる。すなわち、口谷村の西の地点と米谷村の西の地点に一里塚が記載されている。元禄十年(一六九七)の国絵図には、正保の国絵図とおそらく同じ地点と思われる巡礼街道の道筋に、口谷村を西へではずれたところと、「米谷村之内六軒新田」のところに一里塚の印がある。そして天保六年(一八三五)の国絵図にも「米谷六軒茶屋」のところに、一里塚が記載されている。
 

写真106 正保国絵図にみえる米谷の一里塚
:印が一里塚(竹田市立図書館所蔵)


 
 以上のとおり正保・元禄・天保の国絵図には、いずれも米谷村のところに一里塚がしるされているが、それより古い慶長の国絵図にはその記載はない。このことから、この一里塚ができたのは、江戸時代の宿駅制がしかれてからのことであると考えられる。したがって米谷村の一里塚の近くで秀吉が休息したという口碑は、江戸時代につくられた話である、とみるのが妥当であろう。