太閤検地は、天正十年明智光秀を倒した直後、山城から指出(さしだし)を徴したのを最初とする。
第一期ともいうべき天正十六年ころまでに、大和・若狭(わかさ)・紀伊そして九州・四国などで実施され、摂津では同十一年におこなわれた。同年七月大阪城に入った秀吉はまもなく大阪およびその付近で検地をおこなったことが知られている。また八部郡須磨寺(神戸市)に関して、同年「羽柴様御奉行叉御見(検)地候」とあって、須磨寺で検地(おそらく指出)がおこなわれたことがわかる。この摂津の検地が指出程度にとどまったものかどうか、また摂津一国にわたっておこなわれたのか、それとも一部の地域の検地にとどまったのかは明らかでない。
つぎに全国統一が完了したあとの第二期ともいうべき天正末年の検地は、畿内・中国・山陰・奥羽まで三二ヵ国でおこなわれた。摂津では「天正十九卯年徳善院御縄にて」というように、徳善院すなわち前田玄以が奉行となって、天王村(大阪府能勢町)で検地をおこなった。が、このほかに摂津で天正検地がおこなわれたことをしめす史料はない。したがって宝塚市域の村々で天正年間に検地がなされたかどうかは、明らかにすることはできない。
今日市域村々でおこなわれたことが知られるのは、文禄三年(一五九四)の検地である。文禄検地は天下統一後あらためて画期的なひろがりをもっておこなわれた、全国的な統一検地ということができる。表13にしめすとおり、市域の村々でも文禄三年九月・十月の日付で検地がおこなわれた。西谷地区の村は隣接する三田市域村々と同じく石川久五郎、小浜地区と長尾地区西部の村は、摂津における検地の総奉行ともいうべき浅野弾正少弼(だんじょうしょうひつ)長吉、長尾地区東部の山本村は、川西市域南部と同じく舟越五郎右衛門景直を検地奉行としておこなわれた。
表13 市域村々の太閤検地
村名 | 検地高 | 検地面積 | 検地日付 | 検地奉行 |
---|---|---|---|---|
石 合 | 町 畝 歩 | |||
佐曽利 | 390.900 | 4076.05 | 文禄3.9.23 | 石川久五郎 |
長谷 | 3 | 〃 | ||
大原野 | 3 | 〃 | ||
波豆 | 416.600 | 4344.00 | 3 | 〃 |
境野 | 3 | 〃 | ||
玉瀬 | 3 | 〃 | ||
切畑 | 3 | 〃 | ||
長尾山 | 浅野弾正少弼長吉 | |||
米谷 | 624.095 | 4463.19 | 3.9 | 〃 |
中山寺 | 140.870 | 1271.12 | 3.10.5 | 〃 |
中(中筋) | 617.677 | 5376.20 | 3.9 | 〃 |
山本 丸橋・口谷・平井とも | 1259.300 | 12244.14 | 3.10 | 舟越五郎右衛門景直 |
市域で検地帳が残っているのは、佐曽利村・米谷村・中山寺村・中村(中筋村)・山本村の五ヵ村である。佐曽利・中筋・山本村の検地帳は当時の控え・写しであるが、中山寺・米谷村のそれはのちの写しである。中山寺村では寛永三年(一六二六)中山寺年預滝本坊が炎上したさい、文禄検地帳の本帳が焼けてしまった。その後、必要なときには写しを使ってきたがそれも文字がしだいに見えにくくなったとして、元禄三年(一六九〇)あらためて写しなおした。現存は元禄の写しである。米谷村の文禄検地も火事で焼失した。しかし文禄三年九月の検地帳作成当時、その写しを清澄寺の慶清がとっていたので、これを延享元年(一七四四)に写しなおした。現在みられるのは、この延享の写しである。この村はのちにも述べるとおり、検地帳が当初から一九〇石余と四四〇石余の二冊になっていたようである。