一般に検地帳には、土地一筆一筆について、まず小字(こあざ)名をしるし、つぎに上田・中畑というふうに、土地の品等と田畑屋敷の別がしるされ、つぎに面積、そして村ごとに定めた品等別の法定反当収量(石盛)にもとづいて、一筆ごとに計算した石高(分米・法定収穫高)が記載された。さらにその下にそれぞれの土地の貢租負担者が、名請人として登録された。検地帳は年貢徴収の台帳であると同時に、名請人を百姓身分に固定し、それを土地にしばりつける役割を果たした。
秀吉は、天正十二年(一五八四)におこなった近江の検地において、すでに六尺三寸の間竿(けんざお)ではかって、一反=三〇〇歩、一畝=三〇歩の反・畝・歩の単位を採用した。したがって摂津においても、第一期もしくは第二期の天正検地で、律令制以来の三六〇歩=一段の制、またその下の単位であった大(三分の二段=二四〇歩)・半(一八〇歩)・小(三分の一段=一二〇歩)を廃し、反・畝の単位を採用したものと考えられる。全国的な統一検地である文禄検地においては、いうまでもなくこの新しい単位が採用された。
市域に残る検地帳についてみてみよう。石盛は村によって差違があった。佐曽利村では、石盛は上田が一二・五(反当り一石二斗五升)、中田が一〇・五、下田九・上畑七・中畑五・下畑四・屋敷一二であるが、中山寺村・中筋村では、上田が一二・五、中田一〇・五、以下下田八・上畑一〇・中畑八・下畑六であった。米谷村は中山寺・中筋両村と同じであるが、下畑だけ違っていて五となっている。山本村は上田一四・中田一二・下田一〇・上畑一〇・中畑八・下畑六・屋敷一〇と、もっとも石盛が高かった。文禄検地では原則として田畑ともに上・中・下の三等級に評価されているが、ごくわずかながら下々田・下々畑がある村もあった。すなわち佐曽利村で下々田(石盛六)、米谷村で下々田(五)・下々畑(二)、中筋村では下々畑(二)の品等が用いられている。
もちろん一筆の土地を上田と評価するか、中田と評価するかによっても違いが生じるので、その村の石盛をみるだけで、他村と比べて貢租取立てがきびしいかゆるいか、あるいは他村に比べて地味が肥えているかやせているか、などはいちがいには判断できない。
さて佐曽利村の検地帳の末尾に「一、四拾壱間家数」と、家数の記載がある点が注目される。全国的な統一検地としての文禄検地をおこなうにさきだち、秀吉は天正十九年三月「六十六ヶ国へ人掃(人口調査)之儀」を命じ、「家数人数男女老若共ニ一村切ニ」書きつけた家数人数帳を作成するよう、全国に命じた。十八年に全国の政治的統一が完了したのを機会におこなった全国的な戸口調査であった。この調査は直接的には翌年の唐陣にさいしての陣夫役の徴発の準備としておこなわれたものである。佐曽利村の検地帳末尾に記載されている家数四一軒は家数人数帳の集計を転記したものであろうが、その数はこの村で検地帳に屋敷地を登録している農民の数と一致している。すなわち同村の検地帳には屋敷地四四が登録されているが、そのなかにひとりで屋敷地をふたつもつものが三人いるので、屋敷地を登録している農民の数は四一となり、検地帳末尾記載の家数と一致する。この検地帳に屋敷地を登録している農民が、いわゆる本百姓であり、陣夫役その他の徴発にも応ずる役家であったわけである。
一方、検地帳に田畑を登録しながら屋敷地を登録していない高持百姓はもちろん住む家がないというわけではない。かれらは、本百姓=役家を自家の本家または主家としている血縁分家や家持ちの譜代下人であったのであり、本家や主家の屋敷地の一角に住む、ヘヤ住みであった。おそらく農業経営においてもなお本家・主家に労働力を提供する従属性を残し、また本家・主家に賦課された陣夫役を、本家・主家から命じられて実質的に負担させられたのであろう。要するにかれらは高持ちであってもまだ本百姓=役家の扱いをうけていないものであった。それにしてもかれらが現実に田畑を経営するものとして、検地帳に独自に登録され、名請人として年貢負担を義務づけられていることは、小農民を自立させる方向をすすめる政策として、太閤検地の進歩性をしめすものといえよう。
佐曽利村の検地帳はかなりいたんでいて集計も不可能であった。ここでは中山寺村・中筋村について農民たちの持高を集計して、表14にしめした。
中山寺村は、中山寺とその門前百姓とで構成されている。このため多くの土地が中山寺の諸坊で所有されており、ほかに左次右衛門以下六人の門前百姓が高持ちとして検地帳に名を登録していて、他村とちがった様相をしめしている。いま表14には具体的に表示しえない中山寺諸坊の持高をしめせばつぎのとおりである。辻之坊二六石一斗二升三合、松本坊二二石四斗二升九合、杉本坊二一石二斗七合、宝泉坊一九石九斗二升四合、西之坊一一石六斗七升七合、成就坊四石三斗八升五合、岩本坊三石九斗三升七合、滝本坊三石三斗二升九合、中之坊二石三斗五升三合、新坊四斗五升五合、合計一一五石八斗一升九合で、村高の八二・三%を占めている。
中筋村の検地帳には、ところどころに田品の右肩に柿の木の本数や茶園の株数をしるしていることが特徴的である。