豊臣氏の領国体制

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 秀吉は大阪城を本拠として中央政権を確立するため、まず信長のとき以来摂津を領有していた池田信輝父子を天正十一年(一五八三)美濃国に転出させた。これについてはすでにこの節のはじめに述べた。秀吉はその後も摂津の旧大名を他へ転封する政策を進め、大阪周辺に領国体制を固めていった。十七年に高槻の高山右近友祥を播磨明石に、茨木の中川秀政を播磨三木に移し、同年五月にはいったん能勢郡に入れた脇坂安治(わきざかやすはる)を、はやくも八月には大和高取に移した。さらに十四年十月には川辺郡に勢力をもっていた塩川国満を滅ぼしている。このようにして旧勢力をほとんど摂津から除き、そこを直轄領ないし近臣の知行地にふりかえ、豊臣の領国体制は固められた。
 いま豊臣政権末期、慶長初年の状況をみると、表15のとおり、摂津には高槻に新庄直頼(しんじょうなおより)三万石、茨木に片桐且元一万石、豊島郡に青木一重一万石、三田に山崎家盛(いえもり)二万三〇〇〇石が配置されていた。大名四人の配置は、それでも多いほうで、河内・和泉には大名各一人が配置されていたにすぎない。このように豊臣大名とはいえ、大名の配置を極度におさえたうえ、摂・河・泉の過半が豊臣氏の直轄領にあてられた。全国にある二二二万石余の直轄領のうち、その二九・二%にあたる六五万石が畿内に存在している(表16)。もちろん中央政権にふさわしく、直轄領は全国にわたっていたが、畿内への集中は大きく、畿内を中心として、地域を周辺の、西は播磨、北は越前、東は尾張・美濃までひろげてみると、豊臣氏の直轄領のじつに七〇%までがこの地域のなかに含まれていることが知られる。
 

表15 豊臣政権末期の大名配置

国名藩名藩主知行高入封年次
摂津万石
高槻新庄直頼3文禄4(1595)
茨木片桐且元1文禄4.8.17
味舌(織田長益)0.2天正10(1582)
豊島郡青木一重1天正13
三田山崎家盛2.3天正10
河内狭山(北条氏規)0.698天正19.8.9 2 千石
文禄3.12.2 加増
和泉岸和田小出秀政3天正13
播磨姫路木下家定2.5天正15
木下延重2慶長4(1599)
木下延俊2.5文禄3
加古川糟屋武則1.2文禄2
横浜茂勝1.7文禄3
淡河有馬則頼1天文(1532~)以前
丹波柏原織田信包3.6慶長3
亀山前田玄以5天正13
福知山小野木公郷3.1文禄3
山家谷衛友1.6文禄ごろ
但馬出石小出吉政6文禄4
豊岡杉原長房2文禄3
竹田才村広秀2.2天正14ヵ
八木別所吉治1.5天正13

 
 

表16 慶長3年(1598)畿内における豊臣氏の蔵入地

国名A検地高B豊臣氏蔵入地B/AB/C
畿内
山城225,26284,86937.73.8
大和448,945100,46222.44.5
摂津356,069210,03159.09.4
河内242,106156,53564.77.0
和泉141,51397,46468.94.4
1,413,895649,36145.929.2
全国18,509,043C2,223,64112.0

 
 そのうえ秀吉は、はじめ播磨・但馬を領有していた弟秀長を、天正十三年大和郡山に移したあと、播磨には正室北の政所の兄木下家定・延重、家定の子延俊の三名を配置した。こうした一族大名や、さらには豊臣氏子飼の大名の配置も加えて、豊臣氏は畿内を中心とする中央政権として領国体制を固めていった。
 そのなかで、宝塚市域がどのように支配されていたかは明らかでない。まえにも述べたように、おそらく豊臣氏の領国体制の一翼として、豊臣氏の蔵入地か、もしくは近臣の知行地となっていたと考えられる。