いま豊臣政権末期、慶長初年の状況をみると、表15のとおり、摂津には高槻に新庄直頼(しんじょうなおより)三万石、茨木に片桐且元一万石、豊島郡に青木一重一万石、三田に山崎家盛(いえもり)二万三〇〇〇石が配置されていた。大名四人の配置は、それでも多いほうで、河内・和泉には大名各一人が配置されていたにすぎない。このように豊臣大名とはいえ、大名の配置を極度におさえたうえ、摂・河・泉の過半が豊臣氏の直轄領にあてられた。全国にある二二二万石余の直轄領のうち、その二九・二%にあたる六五万石が畿内に存在している(表16)。もちろん中央政権にふさわしく、直轄領は全国にわたっていたが、畿内への集中は大きく、畿内を中心として、地域を周辺の、西は播磨、北は越前、東は尾張・美濃までひろげてみると、豊臣氏の直轄領のじつに七〇%までがこの地域のなかに含まれていることが知られる。
表15 豊臣政権末期の大名配置
国名 | 藩名 | 藩主 | 知行高 | 入封年次 |
---|---|---|---|---|
摂津 | 万石 | |||
高槻 | 新庄直頼 | 3 | 文禄4(1595) | |
茨木 | 片桐且元 | 1 | 文禄4.8.17 | |
味舌 | (織田長益) | 0.2 | 天正10(1582) | |
豊島郡 | 青木一重 | 1 | 天正13 | |
三田 | 山崎家盛 | 2.3 | 天正10 | |
河内 | 狭山 | (北条氏規) | 0.698 | 天正19.8.9 2 千石 |
文禄3.12.2 加増 | ||||
和泉 | 岸和田 | 小出秀政 | 3 | 天正13 |
播磨 | 姫路 | 木下家定 | 2.5 | 天正15 |
木下延重 | 2 | 慶長4(1599) | ||
木下延俊 | 2.5 | 文禄3 | ||
加古川 | 糟屋武則 | 1.2 | 文禄2 | |
横浜茂勝 | 1.7 | 文禄3 | ||
淡河 | 有馬則頼 | 1 | 天文(1532~)以前 | |
丹波 | 柏原 | 織田信包 | 3.6 | 慶長3 |
亀山 | 前田玄以 | 5 | 天正13 | |
福知山 | 小野木公郷 | 3.1 | 文禄3 | |
山家 | 谷衛友 | 1.6 | 文禄ごろ | |
但馬 | 出石 | 小出吉政 | 6 | 文禄4 |
豊岡 | 杉原長房 | 2 | 文禄3 | |
竹田 | 才村広秀 | 2.2 | 天正14ヵ | |
八木 | 別所吉治 | 1.5 | 天正13 |
表16 慶長3年(1598)畿内における豊臣氏の蔵入地
国名 | A検地高 | B豊臣氏蔵入地 | B/A | B/C | |
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畿内 | 石 | 石 | % | % | |
山城 | 225,262 | 84,869 | 37.7 | 3.8 | |
大和 | 448,945 | 100,462 | 22.4 | 4.5 | |
摂津 | 356,069 | 210,031 | 59.0 | 9.4 | |
河内 | 242,106 | 156,535 | 64.7 | 7.0 | |
和泉 | 141,513 | 97,464 | 68.9 | 4.4 | |
計 | 1,413,895 | 649,361 | 45.9 | 29.2 | |
全国 | 18,509,043 | C2,223,641 | 12.0 |
そのうえ秀吉は、はじめ播磨・但馬を領有していた弟秀長を、天正十三年大和郡山に移したあと、播磨には正室北の政所の兄木下家定・延重、家定の子延俊の三名を配置した。こうした一族大名や、さらには豊臣氏子飼の大名の配置も加えて、豊臣氏は畿内を中心とする中央政権として領国体制を固めていった。
そのなかで、宝塚市域がどのように支配されていたかは明らかでない。まえにも述べたように、おそらく豊臣氏の領国体制の一翼として、豊臣氏の蔵入地か、もしくは近臣の知行地となっていたと考えられる。