本能寺の変後秀吉が畿内を中心として次期統一政権への地歩を固めようとしていたころ、徳川家康は東海・東山に五ヵ国(三河(みかわ)・遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・甲斐(かい)・南信濃(しなの))を領有するに至った。そして秀吉に反感をもつ信長の二男信雄をたすけ、あるいは四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や越中の佐々成政と呼応し、また紀州の根来衆・雑賀衆、近江の甲賀衆らとも通じて、秀吉の畿内政権を包囲牽制(けんせい)しようとしていた。秀吉はまたこれに対抗して東日本への進出、家康の封じこめを策し、天正十二年(一五八四)ついに尾張小牧山(愛知県)で両者は対陣することとなった。このときには長久手(ながくて)の戦いで家康が快勝し、秀吉と互角に戦える家康の実力を天下にしめした。しかしこの段階では、天下の情勢は秀吉に有利に展開していたので、家康は秀吉と和睦し、長く雌伏(しふく)を余儀なくされた。
その後天下統一のあと、東海・東山にまで権力基盤をひろげようとした秀吉によって、家康は天正十八年東海・東山の五ヵ国から関東へと移封を命じられた。こうして豊臣政権下にあって伊豆(いず)・相模(さがみ)・武蔵(むさし)・上総(かずさ)・下総(しもふさ)・上野(こうずけ)の六ヵ国二四〇万石を領有することとなった家康は、その後もいちおう秀吉と和順の関係を保っていたものの、領国の軍事体制の強化につとめ、秀吉にとってはつねに無気味な敵国的存在となった。
文禄四年(一五九五)七月、豊臣秀次(ひでつぐ)の自害によって秀吉の跡目は幼少の秀頼(ひでより)がつぐことが確定的となった。このため秀吉は死後のことを案じ、これまで秀吉のもとで政権を処理してきた五奉行のうえに、最高顧問としての五大老の制を設けた。そして秀吉の死後は彼ら五大老・五奉行=十人衆の合議制をもって政治を運営し、豊臣政権の維持存続をはかろうとした。十人衆へはくりかえしくりかえし豊臣氏への忠誠を求め、秀頼を疎略にせず、別心なく盛りたてていくことを誓う内容の連署の血判誓紙をしたためさせた。
しかしこの五大老・五奉行の合議制は決して確たる制度とされたわけではなかったので、秀吉が死んだ翌年慶長四年(一五九九)閏三月、五大老のひとり前田利家が死ぬと、たちまち勢力の均衡はくずれた。家康襲撃の動きがあった石田三成は、利家死去の夜、三成に不満をもち家康に従っていた加藤清正・黒田長政らにおそわれ、近江佐和山(さわやま)(彦根市)に引退させられた。そして以後五大老のうちでは家康がとみに比重を増していくこととなる。早くも同年九月家康は大阪城に入って秀頼と会見した。ついで十月朔日(ついたち)には大阪城西の丸に本拠をおいて、中央政府軍の統轄者としての地位を確立し、本丸にいる秀頼とはり合う態勢となっていった。
こうして五大老・五奉行の制は秀吉の死後わずか一年にして解体した。それにしてもなお秀吉なきあとの覇権(はけん)をめぐる争いは、内攻しながら陰湿につづいていく。やがて五大老のひとり会津(あいず)上杉景勝(かげかつ)征伐のため家康が東下したのを機に、家康打倒の計画が石田三成を中心にすすめられ、ついに五大老のもうひとり毛利輝元(もうりてるもと)を盟主といただいて挙兵した。関ヶ原の戦いである。