慶長五年(一六〇〇)九月十五日わずか数時間の戦いで西軍は大敗した。ここに時代は大きく徳川体制へと傾斜していく。戦いの後、全国に散在していた豊臣氏の蔵入地は摂・河・泉を除いてほとんど失われた。中央地域では、とくに播磨の変化は大きかった。木下一族・豊臣大名はひとりも残らず除封・転封となり、一挙に播磨一国が無主空白の国となっていった。すなわち播・但を領有していた姫路の木下家定は、関ヶ原の戦いにさいして去就に迷ったため、いったん所領を預かりとられたが、やっと慶長六年備中国足守(あしもり)(岡山県)へ移されて生き残ることができた。木下延重(のぶしげ)は除封、同延俊は戦功によって加封のうえ、豊後国日出(ひじ)(大分県)へ移された。槽屋武則(かすやたけのり)ら三人の豊臣大名も除封・転封になって、結局播磨の旧豊臣大名はひとり残らず除かれ、豊臣領国体制の一角は完全に崩壊した。
摂津でも、高槻の新庄直頼は取りつぶされ、茨木の片桐且元、三田の山崎家盛はそれぞれ大和国龍田(たつた)・因幡国若桜(わかさ)(鳥取県)へと移封になって、豊臣大名で転封されなかったのは豊島郡の青木一重だけであった。移封のあとは徳川氏の直領にされ、あるいは豊臣氏から離れて徳川氏に帰属したものに与えられた。ことに豊臣秀頼の所領は、全国散在直領の没収によって、二〇〇万石から一挙に六五万石に縮小され、一大名に転落した。しかし彼はなお大阪城にあって摂津・河内・和泉の蔵入地をほとんど残し、この三ヵ国に集中して所領をもちつづけたから、摂・河・泉に限っていえば、幕府は関ヶ原の役後徳川領国体制をただちに樹立しえたわけではなかったのである。