つぎにそのことをややくわしく摂津について考えてみよう。関ヶ原の戦いの後、まず徳川氏の直領は摂津においてどのように配置されたのだろうか。
1 島上・島下郡の直領 島下郡高槻に慶長十二年にはすでに幕府の代官がおかれていた。そして慶長期に本多頭房(あきふさ)が高槻の御蔵奉行をつとめていたと考えられるので、島上・島下郡に幕府の直領があったことが推察される。おそらく関ヶ原の役以後取りつぶしになった高槻の新庄直頼(三万石)の所領のあとが直領になったのであろう。
2 能勢郡の直領 慶長五年十月一日、能勢頼次(のせよりつぐ)が能勢郡のうちにおいて六八〇〇石余の直領を、代官として預けられた。元和三年(一六一七)の「摂津一国高御改帳」にみえる、元和当時の頼次の預かり地は、能勢郡で六八八一石五斗四升二合であるから、慶長五年から元和三年まで、そして寛永十年(一六三三)に能勢氏がその地を返納するまで能勢郡に直領があったことが考えられる。
3 川辺郡(北部)・豊島郡などの直領 慶長十四年以後のことであるが、長谷川藤継(ふじつぐ)が摂津国代官となり、多田銀山のことを奉行した。長谷川はやや時代が下がった元和三年の高御改帳では、当時代官として川辺・豊島両郡を中心に直領二万三四二八石六升九合を預かっている。そのうち川辺郡の預かり地は多田銀山の地帯を含む川辺郡北部の村々である。そのなかには市域西谷地区全域の村も含まれている。
しかし後に述べるように、慶長年間においては西谷地区村々の大部分が片桐且元領であったとみられるので、慶長以来長谷川藤継の支配した幕府直領は元和三年段階よりも少なかったと考えるのが妥当であろう。市域西谷地区についていえば、藤継支配の直領があったとしても、それはごく一部にとどまったのではなかろうか。
4 川辺郡(南部)・武庫郡の直領 天正十二年(一五八四)以来豊臣政権下で尼崎郡代をつとめ、その近辺の豊臣鍜三万石を管掌していた建部高光(たけべたかみつ)(寿徳(じゅとく))が関ヶ原の戦い後徳川氏の郡代の地位に移行し、直領を管掌していた。慶長十二年からは子光重が跡をついで郡代となったが、同十五年に死んだ。このときその子政長は八歳の幼少であったので、その後見として同十九年五月下間(しもつま)(のちに池田)重利が尼崎代官に任じられている。この建部―下間によって川辺郡南部・武庫郡地区にある徳川直領が管掌されたと推測される。
たしかな史料がないので、あくまで推測の域をでないが、摂津に関ヶ原の役後にできた徳川氏の直領はほぼ右のようであったと考えられる。慶長期には大阪に豊臣秀頼がいる関係で、幕府の直領の方はあまり大阪に近接して存在したとはいえない。尼崎の郡代・代官が管掌した川辺郡南部は比較的大阪に近いといえるが、それも大阪とは淀川が間を隔てているのである。そのほかには島上・島下・能勢・川辺(北部)・武庫郡など、摂津でも大阪から比較的遠いところに直領が存在していたことが推測される。その高は概算して摂津全村高(三五万八〇〇〇余石)の四分の一弱ではなかったろうか。