さて、関ヶ原の戦い以後の慶長年間、摂津に所領をもった大名・旗本のうち、徳川氏に帰属していたと思われるものは、どれほどいたのであろうか。徳川氏に帰属した時期を関ヶ原の戦い以前と以後とにおけてみると、まず関ケ原の戦い以前から徳川氏に帰属していたものは、管見のかぎりではいたって少ない。
大名としては大島光義がいるだけである。彼は慶長三年(一五九八)二月八日島下・豊島・武庫郡のうちと、美濃国に所領を与えられ一万八〇〇〇石となっていた。また旗本クラスのものもいるにはいるが、これまたわずか数名にすぎない。すなわち慶長三年に、市域の中筋村ほか豊島郡・島下郡内に領村をもつようになった三〇〇〇石の渡辺勝(かつ)がいる。そのほか豊臣時代(年次不詳)から武庫郡鳴尾村(西宮市)を知行所としていた佐々長成五〇〇石や、同じく武庫郡今津村のうちおよび近江・美濃に知行所をもっていた伏屋為長(ふせやためなが)一〇〇〇石がおり、市域山本村から川西市域南部にかけての村々の文禄検地にあたって、検地奉行をつとめた船越景直(ふなごしかげなお)の系統である永景(ながかげ)が慶長四年に川辺郡下河原村(一部)ほかを領有して四六四〇石をもっている例や、さらには天正十八年(一五九〇)以来豊島郡に八〇〇石をもっていた畠山義春(よしはる)などがある。
以上が関ヶ原の戦い以前から徳川氏に帰属しかつ摂津に所領をもっていたひとたちであった。それに加えて、関ヶ原の戦い以前から徳川氏に帰属していて、戦後の慶長十三年になって摂津に所領をもつようになった篠山藩松井康重(やすしげ)がいるが、彼がもつ摂津の所領を合わせても、古くから徳川氏に帰属した大名・旗本の摂津にもった所領は、慶長年間には合計して一万石にも達しなかったと考えられる。
つぎに、はじめ豊臣氏に属して摂津に所領を与えられ、関ヶ原の戦い後になって徳川氏に帰属したものはどれほどいたのであろうか。この方は三〇人近い数にのぼっている。大名としては小出吉政(こいでよしまさ)六万石、有馬則頼(のりより)二万石、蒔田広定(まきたひろさだ)一万石、長谷川守知(もりとも)一万石かおり、旗本クラスでは、武庫郡神尾村(西宮市)や川辺郡善法寺村(尼崎市)のうちを知行した平野長重(ながしげ)二〇〇石、杉原長房(ながふさ)・畠山義春各八〇〇石、竹中重定(しげさだ)二二三〇石、今井兼久(かねひさ)一〇〇〇石、織田長益(ながます)二〇〇〇石、猪子一時(いのこかずとき)二七三〇石、岡野房次・能勢頼次各三〇〇〇石、滝川忠征(ただゆき)二〇一〇石、森可政(よしまさ)五〇〇石、柘植正俊(つげまさとし)五〇〇石、木村勝正一五〇石らがいる。
そのひとりひとりについて摂津の領有状況を述べることは省略するが、彼ら三〇名近い大名・旗本の摂津における所領は集計して五万石以下ではなかったかと思われる。
以上、いくつかに分類して述べた徳川方勢力の慶長期における摂津領有を概算してみると、徳川幕府の直領が八万七〇〇〇石余、関ヶ原以前に徳川氏に帰属していた大名・旗本の所領が一万石足らず、関ヶ原以後に徳川氏に帰属した大名・旗本の所領が五万石以下とみられる。これらを合算して徳川方の勢力が摂津でもった所領はおよそ一四万石と考えられ、摂津の村高(三五万八〇〇〇石)に対して四〇%弱を占めたものと推算される。
ということは、逆に豊臣秀頼と大阪衆の勢力がなお摂津では半ばを越える村高を領有していたことを推測させることにもなる。そこであらためて別の角度から、豊臣秀頼方の領有の状況をみることにしよう。