関ヶ原の戦い後、豊臣秀頼が二〇〇万石の直領をもつ全国政権の座から摂・河・泉六五万石をもつ一大名に転落したことについてはすでに述べたが、転落したとはいえ、なお大阪城を本城としていた。そしてその城回りの摂・河・泉では、関ヶ原の戦い以前のように六〇~七〇%までが豊臣領であるというほどの高率(表4)ではなかったにしても、かなりの集中度をもって所領(蔵入地)が存在したことを推測させるのである(ほかに大阪衆の所領もあった)。慶長三年当時の豊臣氏は摂津に二一万石の直領を有したが、それでは、関ヶ原の戦い後は、それがどのように変化したであろうか。
たとえば慶長八年(一六〇三)十二月二十八日付の「摂州所々慶長七年御蔵米御勘定状」(『西宮市史』第四巻二八〇ページ)は片桐貞隆(さだたか)が代官として預かっていた秀頼領について、片桐且元と小出秀政が算用をおこなっているものであるが、御蔵入地三万一四〇四石三斗一升および兵庫地子米(町場の租税)・所々山年貢を管理し、その年貢として慶長七年に一万六五二五石五斗二升(うち一〇〇八石一斗二升分は大豆一四一一石三斗七升で納める)が収取されている。翌八年にその収取米のうちから大阪の台所へ一三三石三斗四升が納められた。
この文書にはほかに武庫川堤築立て人足の飯米に一九九石八斗九升、西宮神社・箕面寺(滝安寺)・勝尾寺の修復費用に二四七一石三斗三升を使ったことなど、諸費用の使途が詳細にしるされている。米が「大阪御たい(台)所」に納められていること、秀頼による諸社寺の造営が盛んにおこなわれたこの時期に、社寺修復費用に米が支払われていることなどから、この御勘定状は豊臣氏の蔵入地のものであるとみてまちがいあるまい。慶長八年九月には中山寺の金堂などの造営・修復がはじめられているが、その造営費用も西宮社・箕面寺などの例のように、おそらく摂津の別の御蔵入地からの収取米から支出されたことが推察される。
それはともかくとして、さらに年次不明の十月六日付片桐貞隆にあてた片桐且元・小出秀政の折紙がある(片桐文書・東京大学史料編纂所影写本)。それには摂津所々二万一二八九石八斗五升の蔵入地と兵庫の地子七〇〇石・山田の山年貢二一石二斗の管理を増田長盛から片桐貞隆にうつし、貞隆を代官に任じる旨がしるされている。兵庫の地子は慶長七年に七〇〇石から五〇一石に減じているから、この文書は慶長七年以前のものと考える。
以上の二史料のうち、とくに前者によって、摂津の秀頼領の代官支配についていくぶん明らかになるが、残念ながら秀頼の摂津における領有の全容を知ることはできない。