ところで関ヶ原の戦いの後、諸国に散在していた豊臣氏の直領が没収されたほか、豊臣氏直属家来の知行の一部も諸国で失われたと思われる。そのため豊臣秀頼は家来に与えていた諸国の知行地を摂・河・泉のなかで与えなおさなければならなくなって、この三ヵ国内の直領や大阪衆の所領を割(さ)くことになったのではなかろうか。つぎの史料はそのような例であろう。
慶長六年五月二十三日の「竹中重定知行目録」(『吹田市史』第六巻七ページ)をみると、竹中は播磨でもっていた四〇六石六斗と伊勢でもっていた二二四石八斗の知行所の替え地として、一〇〇〇石の加増地をも加えて太田郡(島下郡)吹田村一六三一石四斗を与えられている。吹田村はそれまで秀頼の蔵入地で、荒川角左衛門分・山岡道阿弥分として両名に地方知行させていたところであり、要するに豊臣秀頼領であった。それを、関ヶ原の戦い後竹中重定に、他国にもっていた知行地の替え地として与えたことが知られるのである。
さらに慶長十九年六月二日片桐貞隆にあて、表17にしめす村々が加増されている。そのなかに市域米谷村が含まれているが、これについてはあらためて述べるとして、この知行目録なども、「秀頼様御知行御目録」と竪紙(たてがみ)(上包みの紙)にあるように、徳川家康からではなく、秀頼から与えられたものであることが明らかである。もっとも、このときも秀頼があらかじめ家康の内意を得、また加増後駿府(静岡市)の家康に対して加増の御礼に貞隆が参上しているので、まったく秀頼一存の処置ではなかったが、ともかくこれまた秀頼領を割いて貞隆に与えられたものであろう。
以上によって秀頼配下の大阪衆は、旗本はもちろん大名までもが、秀頼の発令で所領配置をされていたことが知られるのである。