慶長三年当時摂津にあった豊臣氏の直領二一万石は、おそらく関ヶ原以後もまったく削減されることなく秀頼領として残ったのであろう。そしてその所領のうちを割いて、一部が豊臣氏の家来、大阪衆に与えられた。もちろん関ヶ原以後は徳川氏-徳川幕府の了承を必要とはしたであろうが、片桐貞隆への加増にしても豊臣秀頼領もしくは大阪衆の所領を割き取る形での加増であったので、それが比較的自由に秀頼の発令でおこなわれたのではあるまいか。
このように推測するが秀頼領の割き取りによって、とうぜん豊臣氏の直領は慶長三年段階の二一万石より減じたであろう。この減じた段階での直領の高がどれほどであったかは確定できないが、一五~二〇万石であったと思われる。そして二一万石から割き取った数万石が家来の知行地にふり当てられたとみたい。
さきに摂津では関ヶ原以後、徳川幕府の直領と徳川氏に帰属した大名・旗本の所領を合算すると一四万石程度で、摂津の総村高の四〇%弱ではなかったかと推測したが、残る二一万石は関ヶ原以後もひとまずそのまま秀頼領として残され、その後一部が家臣に割き与えられたというわけであろう。要するに慶長年間における摂津の領有に関しては、徳川方勢力と大阪方勢力とが四割と六割の比率で、それぞれ所持していたと考えるのが妥当であろう。