以上のように関ケ原の戦い後の慶長年間に豊臣秀頼の勢力と徳川勢力とが、摂津においてどのような力関係にあったかを概観した。つぎにそのことを念頭において市域村々の慶長年間における領主なり所領関係なりの様子をみることにしよう。
しかし豊臣氏は慶長年間にはまだ勢力を残していたとはいえ、その後の大阪の陣で潰滅(かいめつ)したため、豊臣方のことを伝える史料はほとんど失われてしまっている。またかつて豊臣方に属していて、のち徳川氏に帰属したものたちにしても、自家の系譜などに豊臣時代のことについてはあまりしるしたがらず、今日に残る史料をみても、ひたすら徳川氏に忠誠をつくしたことのみを記述した傾向がある。したがって市域村々の慶長期の模様を考える史料はいたって少ない。その数少ない史料のなかから慶長期の市域の領主を拾いだしてみたい。
まず豊臣秀頼領については、市域のなかに秀頼の領村があったかどうかは明らかでない。川西市域には一庫(ひとくら)・東畦野(うねの)・東多田・久代(くしろ)村のように、慶長年間片桐且元が代官として支配していたと史料にみえる村がある。この代官支配というのは、秀頼の所領を預かっていたことをしめすと解釈される。
それはたとえばつぎにも述べる片桐且元・貞隆兄弟のような大阪衆は、慶長年間にはなお秀頼の配下にあって秀頼から知行の加増をうけている。こうした事実からも、代官支配地は徳川氏の直領を預かったものではなく、秀頼領を預かったとみられるのである。そして川西市域に秀頼領があったとすれば、史料的には確認できないけれども、豊臣秀頼領が宝塚市域にもあったことはじゅうぶん推察されるのである。