片桐貞隆秀頼より加増

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 市域に所領のあったことが確認できるものの第一は、大阪衆であった片桐貞隆である。貞隆が慶長十九年(一六一四)六月二日豊臣秀頼から米谷村を加増されたことについてはすでにふれた。貞隆は秀吉子飼いの大名であり重臣であった片桐且元の弟であった。天正六年(一五七八)二月、信長に反した播磨三木の別所長治(べっしょながはる)との合戦に功があり、同八年九月十九日信長政権下の秀吉から播磨国神東(じんとう)郡において、一五〇石の扶助米をうけて以来、十年三月二十一日には同国揖東(いっとう)郡越部(こしべ)のうちにおいて二〇〇石の知行地を与えられ、同年十月十八日さらに山城国相楽郡平尾村において三〇〇石を加増されている。翌天正十一年八月一日には、それに加えて河内国交野(かたの)郡戸村五三三石六斗を与えられ、合計一〇三三石六斗を知行した。つづいて十三年二月二十六日に山城国久世(くぜ)郡枇杷(びわ)庄一四三石二斗を新地として宛行(あてが)われ、十四年三月二十七日には和泉国泉郡上条郷において一〇七〇石の加増をうけ、計二二四六石八斗となった。さらに十八年には尾張国において二〇〇〇石(文禄四年伊勢・美濃に替地)の加増をうけ四二四七石八斗となっている。豊臣家臣として、すべて秀吉から知行をうけたものである。
 秀吉の死後は、貞隆は秀頼に無二の近臣として仕えた。関ヶ原の戦いのあと、摂津から豊臣勢力を排除する家康の方針の一環として、兄且元は摂津茨木一万石より大和国龍田へ転封されたが、このとき貞隆も慶長六年、龍田に隣接している大和国添下(そうしも)郡小泉(大和郡山市)に移された。ここで秀頼から五七六六石三斗の加増をうけ、一万石の大名として添下郡で一一ヵ村、城下郡で二ヵ村、合わせて高七九六六石三斗を領有することになった。しかしそのうちの二二〇〇石は、播磨の二〇〇石、伊勢の一〇〇〇石、美濃の一〇〇〇石の替え地であったため、差引五七六六石三斗が加増されたことになる。
 その後慶長十九年六月に摂津・河内において一一ヵ村五〇〇七石の加増をうけ一万五〇二〇石の大名となったことはさきに述べた(表17参照)。まもなく同年十月大阪冬の陣が起こり、貞隆は且元とともに大阪城を退いて、ふたたび豊臣氏に出仕することはしなかった。そして徳川氏のもと、片桐氏(貞隆系)は慶長十九年以後も、豊臣大名として与えられていた旧領をもちつづけることとなった。したがって米谷村(大部)も江戸時代を通じて、片桐領としてつづいた。
 

表17 慶長19年(1614)6月2日 片桐貞隆あて加増

国郡村名知行高
摂津石合
川辺郡米谷のうち423.700
常光寺407.050
莵原郡御影のうち212.870
青木のうち78.250
八部郡花熊288.830
平野のうち28.100
北野のうち23.430
小計1,462.230
河内
讃良郡木田753.090
河内郡吉田2,039.155
丹北郡大堀542.140
八上郡河合のうち211.170
小計3,545.555
5,007.785