秀吉の死後は、貞隆は秀頼に無二の近臣として仕えた。関ヶ原の戦いのあと、摂津から豊臣勢力を排除する家康の方針の一環として、兄且元は摂津茨木一万石より大和国龍田へ転封されたが、このとき貞隆も慶長六年、龍田に隣接している大和国添下(そうしも)郡小泉(大和郡山市)に移された。ここで秀頼から五七六六石三斗の加増をうけ、一万石の大名として添下郡で一一ヵ村、城下郡で二ヵ村、合わせて高七九六六石三斗を領有することになった。しかしそのうちの二二〇〇石は、播磨の二〇〇石、伊勢の一〇〇〇石、美濃の一〇〇〇石の替え地であったため、差引五七六六石三斗が加増されたことになる。
その後慶長十九年六月に摂津・河内において一一ヵ村五〇〇七石の加増をうけ一万五〇二〇石の大名となったことはさきに述べた(表17参照)。まもなく同年十月大阪冬の陣が起こり、貞隆は且元とともに大阪城を退いて、ふたたび豊臣氏に出仕することはしなかった。そして徳川氏のもと、片桐氏(貞隆系)は慶長十九年以後も、豊臣大名として与えられていた旧領をもちつづけることとなった。したがって米谷村(大部)も江戸時代を通じて、片桐領としてつづいた。
表17 慶長19年(1614)6月2日 片桐貞隆あて加増
国郡村名 | 知行高 | ||
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摂津 | 石合 | ||
川辺郡 | 米谷のうち | 423.700 | |
常光寺 | 407.050 | ||
莵原郡 | 御影のうち | 212.870 | |
青木のうち | 78.250 | ||
八部郡 | 花熊 | 288.830 | |
平野のうち | 28.100 | ||
北野のうち | 23.430 | ||
小計 | 1,462.230 | ||
河内 | |||
讃良郡 | 木田 | 753.090 | |
河内郡 | 吉田 | 2,039.155 | |
丹北郡 | 大堀 | 542.140 | |
八上郡 | 河合のうち | 211.170 | |
小計 | 3,545.555 | ||
計 | 5,007.785 |