貞隆の兄、片桐且元の所領が、慶長年間に武庫郡小林村(良元地区)にあり、また西谷地区のすくなくとも佐曽利村・長谷村・大原野村・境野村は、その所領であったことが知られる。
下佐曽利村の元禄三年(一六九〇)の「池樋帳」や元文三年(一七三八)の「御普請明細帳」などをみると、ひとつひとつの溜池について、その掘削年代を、たとえば「是ハ慶長元申年片桐市正(且元)様御知行所之時御普請被成候」というようにしるしている。また慶長元年のほかに、同三年・十二年・十九年についてもこの村が片桐且元領であったときに溜池(ためいけ)が掘られた、とする記述がみられる。そして当時は下佐曽利と上佐曽利とは一村として扱われていたから、下佐曽利が片桐領であったとすれば、上佐曽利もおそらく片桐領であったと考えてよかろう。
境野村でも、延宝検地帳に、慶長十五年片桐且元知行のときに永荒地になったとか、川欠(かわかけ)になったとしるし、同十六年片桐且元知行のときに山くずれになった、といった記述もみえる。なおほかにも慶長八年に片桐領であったとする史料がある。
このように溜池などについて、片桐市正様御知行之時云々としるしている例は、大原野村・長谷村にもみられる。大原野村は慶長十一年・十三年・十四年・十五年・十七年に、長谷村では十三年・十四年・十六年、元和五年(一六一九)に片桐且元の知行下にあったとしるす史料がある。ところが且元は元和元年に死んでいるので、元和五年まで且元領であったとするのは、疑問であろう。のちに述べるように、元和三年六月長谷村は代官長谷川藤継の支配する直領であったとする史料があるから、片桐領が元和五年までつづいていたとは思えない。
ほかに市域外では川辺郡出在家村(川西市)について慶長元年から同十五年までの間、多田院村(川西市)についても慶長元年から同十九年までの間、且元の知行所であったという記述がある。これらを含め川辺郡北部に、慶長年間の全期にわたって且元の所領のあったことが知られる。ただ大原野村は慶長五年・六年に代官矢島久助の支配地であったようなので、片桐領となった時期が若干ちがう村があるのかもしれない。在地に残る史料では、西谷地区で且元領であったことが知られる村は右の四村だけであるが、それ以外にも、たとえば玉瀬村・切畑村なども片桐領であったかもしれない。しかしこれを明らかにする史料は、いまはない。
また片桐且元領であった年次は、慶長元年とあるのが最初であるが、おそらくこれらの村々のほとんどは、慶長元年の前年、文禄四年(一五九五)八月十七日から所領となり、大阪の陣の直後まで且元領としてつづいたとみるのが妥当であろう。
且元は天正十一年(一五八三)六月五日、賤ヶ嶽(滋賀県)七本槍の軍功で三〇〇〇石の地を宛行われた。ついで文禄四年八月十七日五八〇〇石の加増をうけて茨木城一万石の大名となった。このとき摂津では東成・島下・川辺・武庫の四郡のうちと、伊勢・播磨に所領が与えられた。市域に且元領が生まれたのもこのときのことであろう。
関ヶ原の役後慶長六年(一六〇一)正月二十八日茨木から大和国龍田に移され、同国平群(へぐり)郡のうちで一万八〇〇〇石余を加増され、つごう二万八〇〇〇石となった。このとき伊勢・播磨にあった所領六三〇〇石は公収され、その替え地が平群郡のうちに与えられたが、摂津には所領が残った。そして大阪の陣の直後まで川辺郡北部、市域の且元領も存続したと考えられる。なお、小林村だけは大阪の陣後も、寛永十五年(一六三八)まで片桐領として残った。
ここでつけ加えておきたいのは、慶長十七年九月三日片桐且元が駿府の徳川家康のもとにおもむき一万石の加増をうけている点である。この一万石は秀頼から下されていたものであるが、且元は家康にはばかってその受領をさしひかえていた。それをこの日家康の許しを得たことによって、正式に拝領した、と『駿府記』はしるしている。
家康をはばかりながらも、大阪衆片桐且元の加増は豊臣秀頼によっておこなわれていることがわかる。一万石がどこの地域で与えられたかは明らかでないが、すでに推測したとおり、おそらく秀頼の蔵入地のうちを割いて与えられたものであろう。