ここですこし話題をかえて、慶長年間に領主たちが市域におこなった事業のおもなものについてふれてみたい。
天正年間、織田信長に反逆した荒木村重の戦乱で、西摂・北摂の諸社寺がかなり焼けたことについては、本章第一節で述べた(一九九ページ)。ここではまず、その諸社寺のなかで、中山寺が慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼の寄進によって再建されたことについて述べよう。
中山寺に残る棟札(むなふだ)風の木札には、つぎのようなことがしるされている。敷延して述べるならば、「兵火」(荒木村重の戦乱)にあって山上にあった諸堂が焼失した。その後坊主衆は山を下り、ふもとにかやぶきの観音堂を建てていた。それを慶長八年九月に豊臣朝臣内大臣秀頼が再興した、というものである。再興は、金堂をはじめとして、太子堂・護摩堂・十王堂・鎮守三社・楼門(仁王門)などに及ぶ。
再興普請の惣奉行は桑山市右衛門尉重政、作事奉行は阿達(あだち)助左衛門吉久であった。大工は千賀新七郎清房と同藤右衛門、瓦師は大阪南都藤原氏九郎右衛門吉次・彦三郎政長であった。さらに当時の寺僧の名もつぎのように書き連ねている。中之坊阿闍梨(あじゃり)祐順・岩本坊阿闍梨観実・杉本坊春覚・松本坊慶祐・西之坊徳祐・辻之坊快秀・滝本坊良順・宝泉坊慶音・新坊徳善らである。
ほかに享保四年(一七一九)の修復のときに書かれたと思われる護摩堂の棟札が残っている。それにも荒木村重の兵火にかかり、そのあとに仮下院が造立されていたが、慶長八年九月豊臣秀頼によって再建されたことがしるされている。惣奉行以下関係者の名は右に紹介した木札の場合と同じである。
そのほか中山寺が秀頼によって再興されたときのものとして、本堂(金堂)にかかげられていた鉄製吊燈籠(とうろう)と太子堂につられていた銅製鰐口(わにぐち)が残っている。燈籠の笠の上面に「摂州仲山寺 慶長八年 九月吉日 桑山市右衛門尉」の銘文が陽鋳されてあり、鰐口には「秀頼卿御造営 仲山寺太子堂 慶長八年癸卯十二月吉日 御奉行建部寿得(徳)」の銘文が陽鋳されている。
なお同寺には、豊臣秀頼自署の「豊国大明神」の書幅もある。秀吉が死んだ翌年慶長四年に京都に豊国神社が建立され、秀吉に豊国大明神の神号が与えられた。秀頼はこの神号を書き、そのかたわらに署名・年齢、ときには自署した年月を書いて諸社寺に奉納し、父秀吉の冥福(めいふく)を祈ったようである。中山寺に残る書幅は秀頼八歳のときのもので、慶長五年に書いたものである。
これらの諸資料によって、中山寺で金堂をはじめ護摩堂・太子堂などおもな建物が慶長八年九月から再興されたことが知られよう。ついで十年二月に落慶が営まれているから、このときまでにこれらおもな建物ができあがったのであろうが、楼門については、正保三年(一六四六)再建の棟礼が残り、享保八年(一七二三)八月にも修理したことをしめす棟札が残っている。だから楼門の建立は遅れたと考えられ、諸堂のすべてが秀頼のときに再興され終わったとはかならずしもいえないようである。
中山寺の諸堂再建に秀頼が費やした費用はかなり大きな額にのぼったと推測されるが、秀頼のときにこのような諸社寺の再建が相次いだことは周知のところであり、それは豊臣氏が蓄えた大きな財貨を費消させるための徳川家康の策だとされている。
家康は慶長七年四月淀君・秀頼母子に対して、秀吉の遺志をついで京都方広寺大仏殿を再興するようすすめた。つづいて摂津・河内・和泉その他のゆいしょある諸社寺の造営・修復を秀頼におこなわせた。北摂・西摂についてみても、慶長八年からの中山寺のほかに、同九年西宮神社の社殿・表大門(赤門)や年次は不明であるが、多田院本堂・中堂・御影堂(川西市)、勝尾寺(箕面市)などが造営された。中山寺・多田院・勝尾寺はいずれも荒木村重の乱で焼けたものの再興である。秀頼の造営はほかにも大阪の生国魂(いくだま)神社・四天王寺、河内の誉田八幡宮・観心寺御影堂・京都東寺の金堂・南大門・南禅寺法堂・北野社などに及んでいて、その費用はじつにばく大なものであったと思われる。
なお秀頼は中山寺に対する配慮として、慶長十年正月二日諸役免除の折紙を下している。これはかつて塩川国満から諸役免除の下知状をうけている先例にもとづいてのものらしいが、岩本坊・杉本坊・辻本坊(辻之坊)各一五石、中之坊一三石、松本坊・西之坊各一〇石、滝本坊・成就院各八石、新坊六石、合わせて九坊の手作分一〇〇石について、寺社奉行片桐且元の名で諸役の免除がなされているのである。文禄三年(一五九四)の太閤検地における中山寺村の村高は一四〇石八斗七升で、門前百姓の持高を除いた、寺内一〇坊の持高は九五石八斗九升五合であったから、寺坊のもつ高全体が諸役免除の対象とされたと考えられる。この点もつけ加えておきたい。