且元の、西谷地区の所領であった下佐曽利・長谷・大原野・境野の四村には、その支配した時代、慶長年間に多くの池が掘られ、村々の用水に大きな利便をもたらしたことが注目される。これらの村々に慶長以前からあった池および慶長以後延宝検地がおこなわれた延宝七年(一六七九)までに掘られた池は、下佐曽利村に一二(五反五畝二歩)、長谷村に一一(一町六反七畝九歩)、大原野村四一(五町八畝五歩)、境野村九(一町八歩)あった。そのうち且元の支配時代に、その指示で掘られた池はそれぞれ、四・七・一七・二に及んでいる(表19)。延宝検地帳にしるす池の面積でいえば、且元の指示で掘られた池の面積が、村にある池の総面積に対して占める比率は、つぎのように大きい。下佐曽利村二九・一%(一反六畝)、長谷村九〇・七%(一町五反一畝二〇歩)、大原野村八〇・九%(四町一反一畝二一歩)、境野村六四・〇%(一町二八歩)にのぼっていて、圧倒的である。且元が領村の用水確保につくした力がいかに大きなものであったかを知ることができよう。
表19 片桐且元領のとき掘られた池
村名 | 池名 | 面積 | 掘削年次 |
---|---|---|---|
下佐曽利 | 畝歩 | ||
中山池 | 5.18 | 慶長1 | |
中山池 | 4.00 | 〃1 | |
風呂谷上池 | 4.24 | 〃19 | |
谷田池 | 1.18 | 〃19 | |
小計 | 16.00 | ||
長谷 | なき町池 | 89.21 | 慶長14 |
伝兵衛池 | 3.00 | 〃14 | |
十兵衛池 | 2.04 | 〃14 | |
寺内池 | 1.18 | 〃14 | |
下小畑池 | 42.11 | 〃16 | |
てたて池 | 11.20 | 元和5 | |
かぎ池 | 1.06 | 〃5 | |
小計 | 151.20 | ||
大原野 | 下ノ大池 | 208.10 | 慶長11 |
上ノ大池 | 133.10 | 〃1 | |
中西平丼池 | 1.02 | 〃13 | |
中西平井池 | .24 | 〃13 | |
いやの谷中池 | 4.00 | 〃14 | |
脇池 | 2.20 | 慶長14 | |
ゑりせんしやう池 | 1.05 | 〃14 | |
南ノ下池 | .25 | 〃14 | |
小南池 | 6.20 | 〃15 | |
岡田浦池 | 1.21 | 〃15 | |
森池 | 12.15 | 〃17 | |
祐泉池 | 12.01 | 〃17 | |
西浦谷池 | 6.20 | 〃17 | |
沢池 | 6.16 | 〃17 | |
中林池 | 4.24 | 〃17 | |
行泥池 | 4.18 | 〃17 | |
皿池 | 4.00 | 〃17 | |
小計 | 411.21 | ||
境野 | 若下池 | 17.18 | 慶長8 |
くいたぼうそ池 | 83.10 | 〃17 | |
小計 | 100.28 | ||
計 | 町畝歩 | ||
680.09 |
たとえば境野村の延宝検地帳には、且元が支配していた時期にあたる慶長十九年に掘られた馬場之池について「是ハ慶長拾九寅ノ年百姓自分ニ掘」としるしてある。ということは、このようにしるしていない池、いいかえれば「是ハ慶長拾七子ノ年片桐市正知行所之時出来」としるされている池はやはり且元の奨励・指示のもとに掘られたものであることを推測させる。西谷地区の治水のうえに且元が果たした業績は、このようにきわめて大きかったといえる。
ただ且元が自領のみで池の掘削をおこなったのか、それとも豊臣秀頼の蔵入地や大阪衆の所領にわたっても掘削したのかは明らかでない。しかしただ一例だけではあるが、秀頼の蔵入地である東多田村(川西市)の寺谷池について「是ハ慶長拾八癸丑年片桐市正御代官所之時出来」としるされている。このことから、秀頼の蔵入地においても且元が池の掘削につくしたことを知るのである。