片桐且元はこのほか武庫川・猪名川流域の水論等に関して、あるいは検使役人となり、あるいは奉行となって裁断を下している。
天正十九年(一五九一)武庫川の下流の分流枝川の、鳴尾村地内にあった北郷樋をめぐって、上流の瓦林村と下流の鳴尾村との間に水論が起きた。ことの次第はよくはわからないが、双方の村にそれぞれ他の村々が加勢して乱闘となった。豊臣秀吉は片桐且元・増田長盛を検使役として派遣し、調査をおこなった。その結果、翌二十年十月争論の双方の代表者が逮捕され八三人がはりつけの刑に処せられた。
このときは、且元はまだ検使をつとめただけであったが、つぎの慶長九年(一六〇四)には奉行として裁許をおこなった。この年猪名川から水を取っている三平井(さんぺいゆ)組とそのしも手にある大井(おおゆ)組との間に水論が起きた。猪名川と藻(も)川の分流点のすこししも手で、大井組が藻川堤に新堰(しんぜき)を設けたことから争論となったもので、おそらく三平井組から訴えが起こされたとみられる。三平井組に属する猪名寺村(尼崎市)がかつて文禄三年(一五九四)片桐且元の検地をうけていることも知られるが、それはともかく慶長九年には且元は三平井と大井の争論を取りしらべ裁断を下している。大井組に対して新堰を取り除くよう命令したものである。
さらに慶長十六年に武庫川の水の配分をめぐって、富松井(とまつゆ)(野間井)と百間樋(ひゃくけんび)の井組の間に争論が起きた。仁川(にがわ)が武庫川に注ぐ地点よりすこし上流の武庫川筋で、両井組は対岸にほぼ向かいあって取樋口を設けている。同年片桐且元と弟片桐貞隆の両名が、検使衆として富田太郎助以下五人のものを派遣した。そして両井組閣の分水に関して、且元の手でつぎのような裁決が下されている。すなわち渇水期には武庫川の水を一筋に集め、それを富松井側が六分(六割)、百聞樋側か四分の割で分水するというものであり、七月九日検使衆の名と判を書きつけた分木が下付された。これによって両井の分水協定がはじめて確立したのである。
このようにして片桐且元は武庫川・猪名川沿いの、豊臣秀頼勢力下の地域において、水論を検使したり、また奉行をつとめて裁決を下しており、ここにも豊臣秀頼の重臣としての活躍をみることができる。