慶長国絵図の作成

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写真120 慶長10年摂津国絵図
良元および小浜付近(西宮市立図書館所蔵)


 
 西宮市立図書館に、慶長年間の摂津国の状況を知ることのできる古い国絵図が残っている。それには宝塚市域もえがかれていて、当時の様子を知る手がかりとなる。この絵図には「慶長十年九月 日 片桐東市正(且元)改之」としるしてあるので、それが慶長十年(一六〇五)につくられたものであることがわかる。幕府は慶長十年九月、西尾吉次を惣奉行とし、津田秀政・牧長勝・犬塚忠治をその副として、諸大名および寺社領における石高・税額の調査と、国々の絵図の作成をおこなわせた。この幕命により関西三三ヵ国の調査は津田秀政が総括することとなり、諸大名・代官らから国絵図が作成提出されることとなった。摂津国ではおそらく豊臣秀頼が担当し、片桐且元がじっさいに奉行して作成されたと思われるが、こうしてできあがったのが、まさにこの摂津国絵図なのである。
 この絵図には、村名と村高、おもな道筋、山・川がしるされている。そして山と平野部との境をしめす線がえがかれていて、およその地形がわかるようになっている。
 市域についてみると、村名は一般に丸くかこんだなかにしるされているが、小浜のみは小浜村とはかかず、四角のなかに「小浜」としるしている。鹿塩村は丸いかこみがあるだけで村名の記載を欠いている。見佐村の記載はない。小浜が四角のなかに村名をかこんであるのは、この村が当時在郷町を形成していたことをしめすものとみられる。西摂・北摂でこのように四角のなかに村名をしるしているところは、小浜のほかに池田・山下町(川西市)・伊丹町・塚口町・尼崎・西宮・兵庫・湯山(有馬)・三田がある。これらの村(町)は当時いずれも在郷町・町場として発達していたところであり、小浜にしてもすでに述べたように門前町を形成していたところである。だからこの四角のわくも、意味をもってえがかれていることがわかる。
 また村高については、一村ごとに村高をしるすのが普通であるが、鹿塩村と小浜だけは村高の記載が欠けている。中筋村と小池村は二村(集落)としてえがきながら、村高ではひとつとしてしるされていること、佐曽利村も上・中・下の三村(集落)としながら、これまた村高はひとつにしるされていることが注意される。そしてあまり写実的とはいえないが、山地部にはいくつもの山が、その間をぬって流れる武庫川とともにえがかれているのである。さらにこの山や川と平地部との境に線があって、平野や盆地のおよその地形がしめされている。すなわち良元地区がひとつの線でかこまれ一平野一地区を構成し、佐曽利・大原野・境野・玉顔がひとつの盆地内にあるようにえがかれているが、波豆村は一村だけで一区画を形成している。そして市域南部の小浜・長尾地区の村は、東・南に向かってひろがる武庫平野の、北西部の一角を構成しているようえがかれている。
 道筋については別に述べるとして、絵図に記載するところはおよそ右のようなことにつきている。ときに記載に誤り・脱漏はあるが、もっとも古い国絵図として、まことに貴重である。