近世初頭の道筋

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 さらにここで、この国絵図にしるす市域の道筋をみることにしよう。
 まず、いちばん太い線でえがかれている道筋がひとつ目につく。東は西国街道半町(はんじょう)・瀬川(箕面市)から猪名川を西へ渡って、加茂村(川西市)から小浜―米谷村―安場村を経て武庫川を渡り、生瀬村(西宮市)に至る道筋である。この太い道筋は生瀬村からさらに西へ舟坂村、そこで、湯山へ向かう細い道と分かれて金仙寺村の方向へ折れ、山口村から播磨淡河(おうご)・三木方向へ向かっている。
 これと並ぶ道筋といえば、南の海岸線を大阪から尼崎―西宮―兵庫へと通じる中国街道と、大阪から神崎―伊丹を経て、そこから昆陽を通り西宮で中国街道に合流する道筋のふたつだけである。したがって小浜―米谷街道は近世初頭の主要幹線道路であったといえよう。
 これらの太くえがかれた道筋には、いずれも一里塚のしるしがある。小浜―米谷街道では、小浜の東、大鹿村(伊丹市)から安倉村を通って北上してきた細い道が合流する地点に一里塚があったようである。その西の一里塚は武庫川を渡った生瀬村地内にえがかれていて、この一里塚が記載されている幹線道路に沿って、小浜の町場が門前町であると同時に、宿場町としてもっとも発展してゆくことになる。
 

図5 慶長10年摂津国絵図に描かれた道筋


 
 さてその国絵図がつくられた翌年、慶長十一年には、片桐且元によって、小浜・生瀬・有馬(湯山)・半町・瀬川・尼崎・兵庫などで馬の荷継ぎをすることについての規定がだされている。それには、小浜は生瀬・有馬・尼崎・西宮・兵庫までまえまえどおり荷継ぎすべきであるとしている。これによっても幹線道路に沿う地に小浜がやがて宿場町として発展していくことがうかがえる。
 絵図には、この街道のほかにも細い線でいくつかの道筋がえがかれている。①右に述べた小浜―米谷街道と口谷あたりで分かれ、満願寺村(川西市飛び地)から山中を若宮村(川西市)を経て切畑へと通じる道がある。その道はさらに境野村を経て大原野村に至っている。②大原野村には、東へ銀山谷を経て赤松村から多田院へ至る道が通り、この道は西へは三田町あるいは高平地区(三田市)の村々に通じている。③大原野村の東から北上して長谷・佐曽利村に至る道も細い線である。さらに④小浜の東、一里塚の地点から南下して安倉村から大鹿村に至る道があることはさきに述べた。
 総じて市域を走る道筋は、近世初期には東西に走る道が多く、南北に結ぶ道路は切畑―満願寺―口谷の道筋だけである。したがって西谷地区の村々は、市域南部の村々よりは、西は三田に、東は多田を通って池田と結ばれていた。そして市域は長尾山地によって、南と北とに明確に二分されていたといってよい。
 

写真121 中筋の妙玄寺