一村法華宗に帰依

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 おそらく慶長七年秋が不作であったからであろう。旗本渡辺勝の知行所であった中筋村は、はなはだしい困窮状況におちいっていた。翌八年になっても年貢が納めきれず、二月にも渡辺氏から、領主が在京中なので粟(あわ)・稗(ひえ)・くだけ米でも、とにかくあるものでよいから早く納めるようにと、矢のような催促をうけた。しかし粟・稗まで納めては、村民は妻子まで餓死することになりかねないと、種々嘆願(たんがん)したけれど聞き入れられなかった。
 こうして途方にくれていたとき、たまたま村民のなかに、米を積んで淀川筋をのぼっていく船をみかけたものがいた。聞けば、慶長七年十一月二十日姫路藩池田輝政の幼い息女(家康の孫娘にあたる)がなくなり、この年八年三月一日がその百ヵ日にあたる。そこで御法事の御供養米として菩提寺である京都の法華宗本禅寺へこの米を積みのぼる途中であるということであった。
 これを聞いた中筋村の村民は本禅寺にはせつけ、わけを話し、なにぶんのお救いを求めた。寺の日邵(にっしょう)上人は、法華宗の立義として一粒・一銭たりとも他宗のものの援助にあてることはできない、と断わった。村民がそれでは法華宗に帰伏したいと申しでたところ、村人の三人や五人の帰伏では、そのものには合力するが、村中に合力するわけにはいかないとの返答がかえってきた。そこで村に立ち帰ったうえ、当時一六軒あった中筋村は村中が上京し、一同が法華宗に帰依して子々孫々まで変わらないことをしたためた起請文(きしょうもん)を差しだした。ここにようやく米の融通をうけ、領主渡辺氏に年貢米を上納することができたという。八年三月のことであった。
 そこで三月九日、中筋村からは、あらためて久左衛門・新兵衛・惣五郎が使いとなって本禅寺におもむき、起請文を提出した。それには村をあげて法華宗となること、他郷より村に迎えた男女も帰依させ他の宗派に帰伏することはしない、他宗のものが勧進にきてもそれに応じない、前の宗門に執心してかくれて参詣するようなことはしない、などがしたためられていた。
 中筋村はこうして全村が法華宗陣門流に帰依することとなった。京までは遠いので、古くからあった村の一寺を廃して参詣所とし、なくなった池田輝政息女の法名「縁了院殿妙幻淑霊」の妙幻にちなんで、この寺を妙玄寺ととなえ、池田氏の繁栄を祈って山号を松栄山としたということである。