幕府の直領ひろがる

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 前節でみたとおり、関ヶ原の戦いののち、徳川時代に入ったとはいえ、摂・河・泉の地方には豊臣秀頼をはじめ大阪衆の勢力が残り、この地方に関するかぎり、徳川氏の支配はまだ豊臣氏の領国体制をくずすにはいたらなかった。徳川家康自身まだ大阪にいる秀頼に対する主従関係を断ったわけではなかったし、当面は尼崎・堺・大津・奈良の支配を豊臣氏から引きつぎ、その後ゆっくり時間をかけて豊臣氏との主客の形勢逆転をはかってゆくのであった。
 慶長十九年(一六一四)八月、かの京都東山方広寺の鐘銘にからんで家康は豊臣秀頼に無理難題をもちかけ、ついに同年十月大阪冬の陣をひきおこした。ついで翌元和元年の大阪夏の陣によって、五月八日秀頼・淀殿は自害し、大阪城は陥落した。関ヶ原の戦いののち、畿内の一大名に転落していた豊臣氏はここに滅び、徳川氏の全国支配は不動のものとなった。
 この大阪陣後の元和年間(一六一五~二三)に大名の所領配置は大幅に変更され、その変動は江戸時代を通じて最大のものとなった。最後まで豊臣氏の勢力が残っていた摂津における変化はとくに激しかった。秀頼と大阪衆の所領は一掃され、それが徳川幕府の直領などにあてられたが、以下元和三年(一六一七)六月の状況をしめしていると思われる「摂津一国高御改帳」(以下、高改帳という)によって、大阪の陣後の摂津の領有状況をみることにしよう。
 ただこの高改帳では東成郡としてかかげている村々のなかに、西成郡の村々が混入しているので、これを抜きだして西成郡の村々のなかに加え、さらに東成郡としてかかげている村々のうちから住吉郡を独立させるという修正をおこなった。そのうえでこの高改帳によってまず摂津の徳川幕府直領の状況をしめせば、表20のとおりである。
 

表20 大阪の陣後の摂津における徳川幕府直領

預り大名・代官知行高東成西成住吉島上島下豊島能勢川辺武庫菟原八部有馬預かり高郡別預かり高
石合石合石合
大和小泉 片桐貞隆石16.40030,949.737下 9,181.796川 8,898.649
武 4,810.144八 8,059.148
代官 長谷川藤継23,428.069下 300.000豊 8,650.502
川 14,O10.707武 452.360
八 14.500
代官 村上孫左術門23,337.522豊 7,496.572川 471.207
菟 9,046.468八 6,323.275
代官 建部与十郎19,974.464川 11,784.555武 8,189.909
代官 喜多見勝忠13.839.675上 4,710.383下 9,129.292
尼崎 建長政長10,0007,820.768川 7,820.768
代官 能勢頼次3,0006,861.542能 6,861.542
代官(姓不詳)長左衛門5,815.135西 506.075住 5,309.060
岸和田 小出吉英50,0003,740.430東 3,435.794八 304.636
代官 今井宗薫1,3001,567.779東 534.229西 121.270
住 912.280
代官 石川貞政4,000161.623菟 161.623
137,496.744

 
 幕府の直領は摂津一二郡のうち有馬郡を除く一一郡に分布し、摂津の全村高の三八・四%の多きを占めている。ことに川辺・武庫・莵原(うばら)・八部(やたべ)郡などは、それぞれ郡の全村高の七一・五%、八三・四%、八二・三%、八三・二%までが直領となっている。したがって川辺・武庫両郡に属する宝塚市域の村々についてみても、表21にしめしたように、ほとんどが幕府の直領となっているのである。
 

表21 元和2年(1616)市域村々の領有

村名 領主直領預かり代官・大名領有大名・旗本
<武庫郡>
伊孑志代官 建部与十郎
小林龍田藩 片桐孝利
蔵人代官 長谷川藤継
鹿塩旗本 喜多見勝忠
<川辺郡>
佐曽利代官 長谷川藤継
長谷
大原野
波豆
境野
玉瀬
切畑
<武庫郡>
川面代官 建部与十郎
見佐小泉藩 片桐貞隆
<川辺郡>
安場代官 建部与十郎
米谷 〃   〃小泉藩 片桐貞隆
小浜小泉藩 片桐貞隆
安倉尼崎藩 建部政長
中山寺代官 建部与十郎
中筋旗本 渡辺勝
山本口谷尼崎藩 建部政長
  丸橋

 
 さらに幕府の直領に準ずべきものに、松平忠明領がある。彼は徳川家康の外孫であり、伊勢国亀山から移されて、元和元年六月から同五年までの間、大阪に封ぜられていた徳川一門の大名である。彼の一〇万石の所領は摂津・河内にまたがっていたが、摂津では東成・西成・住吉郡に五万三一〇二石余(摂津全村高の一四・八%)を領有している。この所領はやがて元和五年には幕府の直領に組みいれられるから、それを直領に準ずるものとして、直領に含めて考えると、徳川幕府の直領は元和年間には摂津の全村高の五三・二%を占める計算となり、その占める地位は圧倒的となったといえる。
 このうち市域の直領についてみると、大和小泉藩片桐貞隆・尼崎藩建部政長のような大名が預かったところと、代官建部与十郎・長谷川藤継の支配したところと、四名によって支配されていた。以下この四名の直領支配についてふれよう。