建部政長の預かり地

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 建部政長の祖父高光・父光重については、すでに前節で述べた。そこでは、高光(寿徳)が豊臣政権下で尼崎郡代をつとめていたが、慶長年間には徳川氏の郡代の地位に移行して徳川氏の摂津の直領を管理するようになったこと、そのあとを光重がついだが、慶長十五年(一六一〇)に死んだこと、そのとき子政長は八歳の幼少であったため、十九年からは、その後見をつとめる下間(しもつま)重利が尼崎代官をつとめたこと、などについてふれた(二三〇ページ)。
 さて建部政長は八歳であとをつぐことになったが、本来ならそのような幼少で跡職(あとしき)を相続することはむずかしかった。そこを、外祖父姫路藩池田輝政に取りなしてもらい、家康ならびに秀忠に嘆願して光重の遺領七〇〇石をつぐことが許されたのであった。
 こうして政長は引きつづき尼崎にいることができたが、大阪の陣が起こったとき、かつて父光重が秀頼の近習(きんじゅう)であった関係で、秀頼の恩顧を思いだして大阪方につくように、そして郡代支配地から集めた年貢米を、兵粮米として大阪城に運び入れるように、との秀頼からの働きかけがあった。しかし政長は一族建部与十郎の意見を入れて、八歳で跡目相続を許されたについては家康・秀忠からひとかたならぬ恩義をうけたことを多として、大阪方に兵粮米を渡すことを拒否した。そして後見人であった池田(旧下間)重利や、その弟宮城筑後、さらに南部越後や姫路藩池田利隆の加勢をうけて、徳川氏のために尼崎城を守った。
 

写真122 建部政長の陶像(京都市芳春院所蔵)


 
 大阪冬の陣の講和後、豊臣氏はふたたび大野治房の部将薄田兼相(すすきだかねすけ)を尼崎に派遣し、尼崎は豊臣氏の領地であると主張し、蔵米の返送を政長に要求した。しかしこれにも政長は従わなかった。
 このようにして大阪夏の陣にも、近江国長浜城主内藤信正や池田重利らの支援をうけて尼崎城を守り、徳川氏のために働いた。
 この功により政長は元和元年(一六一五)七月二十一日、一三歳の年少ながら、川辺郡において五六一四石八斗七升六合、欠郡(西成郡)において四九三五石一斗一升四合、計一万五四九石九斗九升、公称高(表高)一万石の所領が与えられ、ここにはじめて大名の列に加わることとなった。外様(とざま)勢力であったため、政長はまもなく元和三年七月には尼崎から播磨国揖東(いつとう)郡のうちに移され、子孫は代々林田(姫路市)藩主として明治に至った。
 さて建部政長は一万石を川辺郡・西成郡のうちにおいて領有する一方で、表20にしめすように川辺郡において七八二〇石七斗六升八合の幕府直領を預かった。さらにその内訳をしめせば表23のとおりである。ほとんどが尼崎市域東北部の村であるが、ほかに宝塚市域の山本村一二五九石二斗五升と安倉村一二三三石四斗三升、および川西市域の小戸庄村が含まれている。
 

表23 元和元年(1615)建部政長の預かり地

郡村名村高
〈川辺郡〉石合
安倉1,233.430
山本(口谷・丸橋・平井とも)1,259.250
小戸庄1,691.960
瓦宮225.590
田中202.679
万多羅寺293.060
岡院181.150
小中島426.994
久々知1,165.000
塚口1,141.655
7,820.768