しかし政長の母らが、政長に与えられた恩賞が一万石にすぎなかったことを不服とした。これに対して与十郎は立腹し、やはり七〇〇石の知行取りが十数倍に加増されたことは破格のことであるので、なんら不満をいうべき筋はないとし、尼崎をでてふたたび浪人となった。そこを徳川氏に拾われ、まもなく元和二年(一六一六)ごろ直領の代官に任じられ、伊丹に在勤することとなった。当時彼が代官として預かった直領は表24のとおりである。市域では伊孑志・川面・安場・米谷(一部)・中山寺を預かっており、そのほか川西市域南部、伊丹市域から尼崎市域・西宮市域東部にわたる二万石に近い土地が彼の代官支配地であった。
表24 元和2年(1616)ごろの建部与十郎の代官支配地
郡村名 | 村高 |
---|---|
〈武庫郡〉 | 石合 |
伊孑志 | 143.212 |
川面(下川面) | 255.506 |
(上川面) | 57.167 |
神尾のうち | 67.780 |
大市 | 819.537 |
高木 | 774.213 |
上・下瓦林 | 764.004 |
今津 | 233.200 |
津門 | 1,037.825 |
小曽根 | 134.750 |
小松 | 603.448 |
西富松 | 191.710 |
武庫庄 | 222.070 |
生津 | 267.580 |
武庫 | 185.187 |
西武庫 | 152.521 |
今北 | 451.645 |
浜田 | 533.200 |
東大島 | 305.481 |
西大島 | 256.520 |
東新田 | 285.890 |
西新田 | 447.463 |
小計 | 8,189.909 |
<川辺郡> | 石合 |
安場 | 26.185 |
米谷のうち | 200.000 |
中山寺 | 140.870 |
満願寺 | 32.762 |
寺畑 | 99.460 |
加茂 | 538.970 |
久代 | 528.679 |
下河原 | 209.500 |
中 | 441.100 |
東桑津 | 355.680 |
西桑津 | 494.650 |
岩屋 | 380.100 |
酒井 | 234.990 |
北川原 | 325.370 |
北鋳物師・伊丹坂・辻 | 682.500 |
伊丹 | 1,890.560 |
御願塚のうち | 81.450 |
椎堂 | 359.065 |
田能 | 437.360 |
法界寺 | 255.120 |
戸之内 | 766.390 |
猪名寺 | 422.320 |
上食満 | 145.072 |
中食満 | 299.000 |
下食満 | 297.710 |
清水 | 285.035 |
若王寺のうち | 406.320 |
善法寺のうち | 184.200 |
額田 | 34.500 |
神崎 | 326.570 |
川田 | 28.666 |
西川 | 204.615 |
潮江のうち | 300.063 |
水堂のうち | 369.725 |
小計 | 11,784.555 |
計 | 19,974.464 |
ただ、元和三年七月尼崎藩戸田氏鉄(うじかね)に与えられた所領をみると(表30)、与十郎が預かっていた武庫郡の直領村々(表24)のほとんどが、元和三年七月尼崎藩領に編入されてしまったことがわかる。与十郎はしかし元和三年七月以後も直領の代官であった。それは元和六年に彼がなお久代村(川西市)を支配する代官であったことをしめす史料があるので、そう推測できるのであるが、尼崎藩の成立によって、彼の代官支配地は当初よりよほど減じたものと考えられる。
元和六年以後の彼の動静はそれ以上明らかにできない。元和八年に彼が安倉村の検地奉行をつとめていることが、彼の動静について知ることのできる最後である。その後まもなく死に、跡をつぐ者のないため家が絶えた。