代官建部与十郎

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 元和の直領代官のひとり建部与十郎は、建部氏系図によれば建部政長の遠縁にあたる。はじめ小田原の北条氏直の家来であったが、北条氏滅亡後浪人(ろうにん)となったらしい。「軍道功(巧)者」で、たまたま慶長十五年に建部光重が尼崎の郡代となったことから、与十郎も尼崎にきて幼少の政長の後見役をつとめるようになった。大阪の陣が起きたとき、豊臣秀頼から大阪方について年貢米を大阪に送るよう働きかけがあった。このとき豊臣氏の命に従うことをいましめたのが与十郎であったことは、すでに述べた。大阪の陣後、政長が大名に取りたてられたのも、与十郎の意見具申に従ったからだといってよい。 
 しかし政長の母らが、政長に与えられた恩賞が一万石にすぎなかったことを不服とした。これに対して与十郎は立腹し、やはり七〇〇石の知行取りが十数倍に加増されたことは破格のことであるので、なんら不満をいうべき筋はないとし、尼崎をでてふたたび浪人となった。そこを徳川氏に拾われ、まもなく元和二年(一六一六)ごろ直領の代官に任じられ、伊丹に在勤することとなった。当時彼が代官として預かった直領は表24のとおりである。市域では伊孑志・川面・安場・米谷(一部)・中山寺を預かっており、そのほか川西市域南部、伊丹市域から尼崎市域・西宮市域東部にわたる二万石に近い土地が彼の代官支配地であった。
 

表24 元和2年(1616)ごろの建部与十郎の代官支配地

郡村名村高
〈武庫郡〉石合
伊孑志143.212
川面(下川面)255.506
  (上川面)57.167
神尾のうち67.780
大市819.537
高木774.213
上・下瓦林764.004
今津233.200
津門1,037.825
小曽根134.750
小松603.448
西富松191.710
武庫庄222.070
生津267.580
武庫185.187
西武庫152.521
今北451.645
浜田533.200
東大島305.481
西大島256.520
東新田285.890
西新田447.463
小計8,189.909
<川辺郡>石合
安場26.185
米谷のうち200.000
中山寺140.870
満願寺32.762
寺畑99.460
加茂538.970
久代528.679
下河原209.500
441.100
東桑津355.680
西桑津494.650
岩屋380.100
酒井234.990
北川原325.370
北鋳物師・伊丹坂・辻682.500
伊丹1,890.560
御願塚のうち81.450
椎堂359.065
田能437.360
法界寺255.120
戸之内766.390
猪名寺422.320
上食満145.072
中食満299.000
下食満297.710
清水285.035
若王寺のうち406.320
善法寺のうち184.200
額田34.500
神崎326.570
川田28.666
西川204.615
潮江のうち300.063
水堂のうち369.725
小計11,784.555
19,974.464

 
 
 ただ、元和三年七月尼崎藩戸田氏鉄(うじかね)に与えられた所領をみると(表30)、与十郎が預かっていた武庫郡の直領村々(表24)のほとんどが、元和三年七月尼崎藩領に編入されてしまったことがわかる。与十郎はしかし元和三年七月以後も直領の代官であった。それは元和六年に彼がなお久代村(川西市)を支配する代官であったことをしめす史料があるので、そう推測できるのであるが、尼崎藩の成立によって、彼の代官支配地は当初よりよほど減じたものと考えられる。
 元和六年以後の彼の動静はそれ以上明らかにできない。元和八年に彼が安倉村の検地奉行をつとめていることが、彼の動静について知ることのできる最後である。その後まもなく死に、跡をつぐ者のないため家が絶えた。