銀山奉行を兼ねた代官長谷川藤継

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 元和年間に市域の直領村々を支配したもうひとりの代官として長谷川藤継がいる。彼についても前節においてすでに述べた。すなわち慶長年間に川辺・豊島両郡を中心とする直領の代官となり、また多田銀山を奉行していたこと、ただし、元和年間に彼が代官支配した村々はすべてが、慶長年間以来の代官支配地であったとは考えられないことなどであった(二二八ページ)。
 さて藤継には重吉・藤広のふたりの兄がいた。長兄重吉は長崎の代官をつとめるまえ、慶長四年(一五九九)に、家康の命をうけて佐渡におもむいている。おそらくそれは、家康が上杉氏の支配下にあった佐渡金山を受け取った直後に、とくに財政経済面の専門的知識や経験をもつ人物を佐渡で必要とし、重吉が登用されたものと考えられる。次兄藤広もまた財政経済に知識をもち、長崎奉行をつとめている。
 ところで藤継自身についていえば、彼も長兄重吉に従って佐渡におもむいた経験がある。多田銀山を奉行し、合わせて銀山地区を含む村々の代官をつとめるようになったのも、佐渡での経験と理財の面での能力をかわれたからであろうか。
 

表25 元和前半年における長谷川藤継の代官支配地

郡村名村高
<武庫郡>石合
蔵人452.360
<川辺郡>
佐曽利393.900
長谷254.537
大原野558.220
波豆416.600
境野139.060
玉瀬82.722
北・南切畑170.060
黒川187.563
国崎108.360
横路35.783
一庫328.647
笹部294.500
山下40.850
山原242.800
見野217.725
東畦野356.150
西畦野293.833
新田116.764
平野・東多田652.010
矢問239.180
多田院293.715
西多田316.112
石道199.820
虫生69.510
赤松111.230
柳谷102.000
芋生74.990
若宮35.672
六瀬1,303.460
栢原・西畑・杉生・鎌倉・島・仁頂寺・清水・栃原・林田・笹尾
木間生・槻並541.778
木津356.070
上阿古谷334.800
下阿古谷151.543
民田104.010
万善118.207
北田原221.358
南田原242.000
紫合429.790
上・下原295.911
内馬場108.260
柏梨田134.850
上野151.805
猪淵105.870
広根465.035
肝川131.120
指組154.720
十倉1,084.430
布木・川原・田中・酒井・川田・下
槻瀬519.817
波豆川449.240
木器274.320
小計14.010.707
(島下郡村々)300.000
(豊島郡村々)8.650.502
(八部郡村々)14.500
23,428.069

 
 藤継が摂津代官として慶長年間に支配した村々ははっきりしない。おそらく当時の支配村々に、大阪の陣後あらたに支配村々が加わったと思われるが、陣後の元和三年六月当時彼の支配した直領村々は判明している。それを表25でしめした。つごうで、島下・豊島・八部の三郡内における支配村々は省略して、武庫・川辺郡内の支配村々のみを掲げた。表によれば、川西市域北部から猪名川町、宝塚市西谷地区、そして三田市高平地区まで、川辺郡北部の直領がほとんど彼の代官支配のもとにあったことが知られよう。
 市域では、武庫郡蔵人村と川辺郡佐曽利・長谷・大原野・波豆(はず)・境野・玉瀬・切畑の各村、すなわち西谷地区全域がその代官支配下にあった。彼は元和三年以後まもなく病のため職を辞したという。しかしそれがいつのことであったのかは、いまのところ明らかにすることができない。