さて藤継には重吉・藤広のふたりの兄がいた。長兄重吉は長崎の代官をつとめるまえ、慶長四年(一五九九)に、家康の命をうけて佐渡におもむいている。おそらくそれは、家康が上杉氏の支配下にあった佐渡金山を受け取った直後に、とくに財政経済面の専門的知識や経験をもつ人物を佐渡で必要とし、重吉が登用されたものと考えられる。次兄藤広もまた財政経済に知識をもち、長崎奉行をつとめている。
ところで藤継自身についていえば、彼も長兄重吉に従って佐渡におもむいた経験がある。多田銀山を奉行し、合わせて銀山地区を含む村々の代官をつとめるようになったのも、佐渡での経験と理財の面での能力をかわれたからであろうか。
表25 元和前半年における長谷川藤継の代官支配地
郡村名 | 村高 |
---|---|
<武庫郡> | 石合 |
蔵人 | 452.360 |
<川辺郡> | |
佐曽利 | 393.900 |
長谷 | 254.537 |
大原野 | 558.220 |
波豆 | 416.600 |
境野 | 139.060 |
玉瀬 | 82.722 |
北・南切畑 | 170.060 |
黒川 | 187.563 |
国崎 | 108.360 |
横路 | 35.783 |
一庫 | 328.647 |
笹部 | 294.500 |
山下 | 40.850 |
山原 | 242.800 |
見野 | 217.725 |
東畦野 | 356.150 |
西畦野 | 293.833 |
新田 | 116.764 |
平野・東多田 | 652.010 |
矢問 | 239.180 |
多田院 | 293.715 |
西多田 | 316.112 |
石道 | 199.820 |
虫生 | 69.510 |
赤松 | 111.230 |
柳谷 | 102.000 |
芋生 | 74.990 |
若宮 | 35.672 |
六瀬 | 1,303.460 |
栢原・西畑・杉生・鎌倉・島・仁頂寺・清水・栃原・林田・笹尾 | |
木間生・槻並 | 541.778 |
木津 | 356.070 |
上阿古谷 | 334.800 |
下阿古谷 | 151.543 |
民田 | 104.010 |
万善 | 118.207 |
北田原 | 221.358 |
南田原 | 242.000 |
紫合 | 429.790 |
上・下原 | 295.911 |
内馬場 | 108.260 |
柏梨田 | 134.850 |
上野 | 151.805 |
猪淵 | 105.870 |
広根 | 465.035 |
肝川 | 131.120 |
指組 | 154.720 |
十倉 | 1,084.430 |
布木・川原・田中・酒井・川田・下 | |
槻瀬 | 519.817 |
波豆川 | 449.240 |
木器 | 274.320 |
小計 | 14.010.707 |
(島下郡村々) | 300.000 |
(豊島郡村々) | 8.650.502 |
(八部郡村々) | 14.500 |
計 | 23,428.069 |
藤継が摂津代官として慶長年間に支配した村々ははっきりしない。おそらく当時の支配村々に、大阪の陣後あらたに支配村々が加わったと思われるが、陣後の元和三年六月当時彼の支配した直領村々は判明している。それを表25でしめした。つごうで、島下・豊島・八部の三郡内における支配村々は省略して、武庫・川辺郡内の支配村々のみを掲げた。表によれば、川西市域北部から猪名川町、宝塚市西谷地区、そして三田市高平地区まで、川辺郡北部の直領がほとんど彼の代官支配のもとにあったことが知られよう。
市域では、武庫郡蔵人村と川辺郡佐曽利・長谷・大原野・波豆(はず)・境野・玉瀬・切畑の各村、すなわち西谷地区全域がその代官支配下にあった。彼は元和三年以後まもなく病のため職を辞したという。しかしそれがいつのことであったのかは、いまのところ明らかにすることができない。