以上、元和三年六月に宝塚市域にある直領村々を預かっていた大名と代官について述べた。そこでもふれたように、川辺郡は当時全村高の七一・五%が、武庫郡は八三・四%までが幕府の直領となっていたのである。この傾向は宝塚市域だけについてみても同じで、市域全村高の七六・一%を直領が占めている。したがって残る二三・九%が私領というわけであるが、具体的には大和龍田藩片桐氏(且元系)・同国小泉藩片桐氏(貞隆系)と旗本渡辺・喜多見(きたみ)両氏によって領有されていた(表21参照)。つぎに市域を支配していたこの四人の大名・旗本について述べよう。
まず、大和龍田藩片桐孝利についていえば、その父且元のところで述べたように、片桐氏は武庫郡では小林村を、西谷地区では佐曽利・長谷・大原野・境野村を文禄四年(一五九五)八月十七日以来領有しており、その領有は大阪の陣の直後までつづいたと考えられる。陣後、加増をうけて山城・大和・河内・和泉のうちにおいて四万石を領することになっているが、おそらくこのとき、西谷地区の且元領は幕府直領に組み入れられ、市域で片桐氏領として残ったのは小林村だけとなったのであろう。この元和元年における所領の変遷については明確な史料がないので、西谷地区の且元領の公収時期をこのときと考えることも、あくまで推測の域をでない。
大阪夏の陣が終わり豊臣氏が滅んでまもない元和元年五月二十八日、且元は駿府(すんぷ)で死んだ。その跡を孝利がついだが、彼も寛永十五年(一六三八)八月一日三八歳で死んだ。そのとき嗣子がなかったため、所領四万石は没収となり小林村も片桐氏の領有から離れた。その後同年十一月十日弟為元を孝利の嗣子にすることによって、あらためて一万石が為元に与えられたが、小林村はもはや、片桐氏領にもどることはなかった。