つぎに米谷村のうちを支配した、大和小泉藩片桐貞隆の元和以降の領知の変遷をみることにしよう。
片桐貞隆の米谷村の領有はすでに述べたように慶長十九年(一六一四)以来のことである。以来明治初年までほとんど江戸時代の全期間にわたって領有がつづいたので、片桐氏(貞隆系)は市域を領有した大名のうちでは、もっとも支配が長期にわたった大名であった。慶長十九年六月外様大名ながら一万六四〇〇石の大名となって以来、表26にしめすとおり、じつに一二代にわたって支配がつづいた。
慶長十九年にうけた所領のうちには、与力衆三人の給知一三五八石九斗が含まれている。この与力衆がどういう事情で片桐氏に属することになったかは明らかでないが、矢部十左衛門に丹波国船井郡三ヵ村七七三石、西川八右衛門に摂津国菟原郡のうち一ヵ村(篠原のうち)と河内国交野(かたの)郡の二ヵ村、合わせて四二五石九斗、伊藤猪左衛門に摂津国菟原郡一ヵ村(中野のうち)一六〇石、三人合わせて一三五八石九斗が与えられていた。この与力衆三人は貞享元年(一六八四)二月、時の藩主片桐貞房の指揮に従わなかったとの理由で追放され、同四年それらの給知は公収されるが、それまでは、彼ら与力衆の給知支配はつづいている。
寛永四年の史料によれば、この与力衆のほかにも、一八人が貞隆から給人として給知をもらっている。すなわち大和国添下郡のうち(小泉・筒井・小林・池内村)において、城忠兵衛に四五〇石、谷村勘兵衛に三五〇石、杉原三右衛門ら四人にそれぞれ三〇〇石というふうに、一八人に合計二八七二石七斗二升の給知が与えられていたことが知られる。いわゆる地方(じかた)知行がおこなわれていたのである。
さて、慶長以来の片桐氏の所領変遷のうち、おもなものを表27にしめした。寛永四年十一月2貞昌が1貞隆の遺領をついだとき、貞昌の弟貞晴に三〇〇〇石を分知した。ついで3貞房のとき延宝元年(一六七三)に庶兄下条長兵衛信隆に大和のうちにおいて一〇〇〇石を分知したので、片桐氏の領知は一万三〇〇〇石余に減った。さらに貞房の代にさきに述べた与力衆三人の追放、給知の公収があって、片桐氏の領知高は一万一〇〇〇石に減じた。
その後しばらく変化はなかったが、6貞芳の代明和六年(一七六九)になって、幕府は兵庫津・西宮を含む灘筋一帯の浜手の村々=酒造地帯を公収した。尼崎藩松平氏ほか三大名(片桐氏・篠山藩青山氏・下総国古河藩土井氏)・五旗本(貞晴系片桐氏・幸正系青山氏・可直系青木氏・景直系舟越氏・為長系伏屋氏)から合計三四ヵ村を公収したのであるが、このとき菟原・八部郡にあった片桐氏の所領も公収され、その替え地が和泉国泉郡内に与えられている。なお同時に、さきに片桐貞晴に与えられていた摂津国八部郡の二村も公収された。