大名として市域の領有がもっとも長かった片桐氏(貞隆系)よりもさらに長く、慶長三年(一五九八)以来明治に至るまで、江戸時代全期を通じて市域中筋村を知行していたのは、旗本渡辺氏(重系)である。渡辺勝についてはすでに前節で述べたが(二四二ページ)、ここでは勝以後の知行について概観しよう。
表28のように同家は一〇代にわたって中筋村を支配したが、その間にみられた知行地の変遷としては、延宝四年(一六七六)の分知がある。すなわち正(まさ)の代延宝四年十二月六日に、嫡子真(しん)に二三〇〇石、次男祐(すけ)に四〇〇石、三男貞(てい)に三〇〇石と、分知をおこなっている(表29)。中筋村はこの分知後も嫡系の知行地としてつづき、明治に至った。そして渡辺氏は代々小普請(こぶしん)組・小姓(こしょう)組あるいは書院番の組下に属して江戸城で勤務した。
摂津の知行地は江戸から遠いため、その支配は代官にゆだねられておこなわれた。渡辺諸家の系譜によって知られるところでも、正の代寛永十五年(一六三八)九月四日に同族渡辺甚兵衛尉(じんべえのじょう)源俊が摂津の知行地三村の代官に任じられ、合力米(ごうりきまい)三〇石五人扶持(ぶち)を与えられている。また忠(ただ)の代(天和二年~享保十五年・一六八二~一七三〇)には渡辺久右衛門が、そしてその死後は引きつづき子の新右衛門尉が合力米を給されて支配をゆだねられていた。