賞罰厳明政策で処分された喜多見氏

272 ~ 274 / 602ページ
 市域鹿塩(かしお)村を江戸時代前期に支配した御家人―旗本に喜多見氏がおり、その支配は勝忠(かつただ)・重恒(しげつね)・重政(しげまさ)の三代にわたった。
 喜多見氏ははじめ北条氏に仕えたが、北条氏政の没落後徳川家康の家人となり、文禄元年(一五九二)の唐陣における肥前(ひぜん)国名護屋(なごや)(佐賀県)在陣をはじめ、関ヶ原の戦い、大阪の陣に供奉(ぐぶ)した。
 大阪の陣後元和二年(一六一六)近江国の郡代となり、采地(さいち)五〇〇石を加増されて一〇〇〇石となった。このとき鹿塩村もその知行地となったのである。摂津ではほかに豊島郡瀬川村(箕面市)がこのとき知行地となっているが、摂津以外での知行の状況は明らかにできない。その後まもなく、摂津郡代となり直領を預かった。元和三年当時、摂津において勝忠が郡代として支配した幕府直領は、島上郡で服部村以下六村、四七一〇石三斗八升三合、島下郡で茨木村以下九一二九石二斗九升二合、計一万三八三九石六斗七升五合であった(表20参照)。摂津の郡代職は二年余つとめたと思われる。そして同四年には和泉国堺の政所職となり、摂・河・泉三国の奉行を兼ね、同七年には采地一〇〇〇石を河内・武蔵において加増され二〇〇〇石となっている。
 勝忠のあと、重恒の代寛永年間(寛永二年・一六二五か)に弟重勝に一〇〇〇石を分知したので、知行地はまた一〇〇〇石余にもどった。この分知のさい、鹿塩村は重恒の知行所として残ったが、摂津にあるもうひとつの村豊島郡瀬川村は重勝の知行所となった。
 つぎの重政は寛文十二年(一六七二)五月十四日家督一一二〇石をついだが、天和元年(一六八一)十二月二十七日武蔵・上野の両国において二〇〇〇石を加増された。さらに同三年正月十一日には(九イ)六八〇〇石余の加増をうけ一万石の大名に列している。ついで貞享三年(一六八六)正月十一日に河内・武蔵において一万石を加えられ、二万石となった。将軍綱吉(つなよし)の側用人(そばようにん)となったのはこの年である。ところが三年後の元禄二年(一六八九)二月二日、側用人重政は「近来しばしば御むねにそむき、勤務にもをろそかなる体なりとて、御勘気をかうぶり、松平越中守定重にめしあづけ」られ(桑名へ配流)、所領を没収されてしまった。このとき喜多見氏の鹿塩村の支配も終わった。
 

写真124 喜多見氏の墓石
鹿塩金龍寺境内にある


 
 なお寛永年間に分知をうけた重勝の子(養子)重治も同年閏正月三日「さきに朝岡縫殿頭(ぬいどののかみ)直国、重治が許(もと)に来たり、刃をあらはし闘論し死に及ぶ。このとき重治其場を立退、剰(あまつさえ)事の始末を糾明せらるるにいたり、偽をかまへ陳じ申せしこと士たるものの所行にあらずとて斬罪」に処せられている。くしくも喜多見の両家が同じ年に相前後して断絶したわけである。
 将軍綱吉は賞罰厳明をむねとし、大名を改易・減封処分にすること四六家、旗本の処分は一〇〇余家にのぼったが、側用人重政も、かなり気まぐれな性格の将軍綱吉の不興をかって家が断絶したのであった。
 

表30 戸田氏・青山氏初期の時代の尼崎藩領

郡村名村高
<川辺郡>石合
見佐8.620
荒牧・荻野 鴻池1,782.050
山田426.734
南野のうち593.933
額田のうち34.500
神崎329.634
葭年貢 3.064
河田28.666
次屋615.450
西川204.615
471.270
今福205.720
杭瀬861.000
梶ガ島120.000
下坂部521.655
潮江のうち300.063
長洲1,486.984
1,052.826
東難波1,026.823
西難波833.800
尼崎600.000
68.120
別所553.010
塚口1,141.655
136.172
東富松1,372.445
尾浜566.030
生島1,813.400
水堂のうち686.665
小計17,844.904
<武庫郡>
伊孑志143.212
蔵人452.360
川面255.506
57.167
神尾のうち67.780
段上95.300
大市819.537
高木774.213
瓦林764.004
広田380.472
越水380.275
862.302
262.202
津門1,037.825
今津のうち233.200
西宮2,093.200
小曽根134.750
小松603.448
西富松191.710
西昆陽276.820
常松130.503
常吉のうち80.152
時友268.920
武庫庄222.070
生津267.580
東武庫185.187
今北451.645
浜田533.200
東大島305.482
酉大島256.520
東新田285.891
西新田447.463
小計13,319.896
(菟原郡村々)9,208.091
(八部郡村々)9,627.409
50,003.000
(表高)(50,000.000)