尼崎藩領の出現

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 以上大阪の陣後市域を支配した四人の大名・旗本について述べたが、さらに元和年間の所領の変化としては、元和三年(一六一七)に市域に尼崎藩領が誕生したことをあげなければならない。
 徳川氏は大阪の陣の直後、元和元年から三年にかけて、大阪とその周辺から豊臣氏方の勢力を一掃したが、それが一段落を告げた元和三年、あらためて大阪城を中心とする所領配置を考え、畿内にいる外様勢力を他の地方へ転出させ、そのあとへ徳川一門や譜代(ふだい)大名を進出させる政策を推進している。つぎに述べるように元和三年尼崎にいた外様大名建部政長・池田重利を播磨へ移したほか、同五年には、同三年以来高槻藩であった土岐頼行(ときよりゆき)を上総国守谷(もりや)へ、和泉国岸和田の小出吉英を但馬国出石(いずし)へと移した。畿内外様大名の畿外への転出政策の推進である。代わって尼崎へは元和三年戸田氏鉄を入れ、同五年高槻へは三河国形原(かたのはら)から松平家信を、岸和田へは丹波国篠山の松平(松井)康重を入れたのであった。
 市域に関係のある尼崎藩の成立も、このような幕府の転封政策、直領と譜代勢力の大阪周辺への集中政策の一環としてみられたものである。すなわち市域の直領をも預かっていた外様大名建部政長が尼崎から播磨国揖東郡林田へと移され、同じく尼崎の外様大名池田重利も播磨国揖東郡鵤(いかるが)(寛永三年同郡新宮)へと移された。そのあとへ元和三年七月二十五日譜代大名戸田氏鉄が入部したが、氏鉄は二万石の加増をうけて近江国膳所(ぜぜ)ヶ崎(大津市)から尼崎五万石の領主となったものである。
 尼崎藩戸田氏の所領は、表30にしめすとおり、西摂の川辺・武庫・莵原・八部の四郡にわたっていた。そのなかに市域の見佐・伊孑志・蔵人・川面の四村も含まれており、藩領としては海辺から遠い、北限に属する村々といってよい。
 戸田氏が尼崎藩主であったのは元和三年から寛永十二年(一六三五)までで、同年七月二十八日戸田氏が美濃国大垣へ去ったあとへは青山氏(幸成(ゆきなり)系)が入部した。青山氏はそのまま戸田氏の所領を引きついだが、寛永二十年に分知をおこなったため、以後領知高は四万八〇〇〇石に減じた。そして幸成・幸利(よしとし)・幸督(よしまさ)・幸秀(よしひで)と四代にわたって、尼崎藩主としてこの地方を支配した。宝永八年(一七一一)二月十一日青山氏は信濃国飯山(いいやま)(長野県)へ移封になり、代わって四万石の松平氏(桜井松平・信定系)が尼崎へ入部した。このとき市域の四村を含む二六ヵ村が公収され、尼崎藩からはなれている。したがって市域の四村は戸田・青山氏の時代だけ尼崎藩領であったわけである。
 ただし、松平氏の時代、文政十一年(一八二八)十月になって、伊孑志・小林・蔵人・鹿塩の四村が尼崎藩に編入され、そのまま明治に至るわけだが、このことについてはあらためて述べたい(五三四ページ参照)。