幕藩体制にふさわしい配置

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 大阪陣後の所領配置と市域を支配した領主について、以上のようにみてきたが、さらにこの期における摂津の支配についてかえりみておこう。関ヶ原の戦いの戦後処理にさいして、徳川氏はすでに直領なり、旗本・御家人クラスの徳川帰属勢力をこの地域にかなり浸透させていた。そのため、大阪の陣後における所領配置の変更は、江戸時代を通じて最大規模のものであったといわれるわりには、摂津では比較的簡単な処理ですんでいるのである。
 豊臣秀頼とその家臣の勢力を一掃したことはたしかに大きな変動であった。しかしそのあとの処理としては、幕府直領を設定し松平忠明(大阪一〇万石)・内藤信正(高槻四万石)・建部政長・池田重利(尼崎各一万石)を配置するという、ごく少数の大名を動かしたにとどまり、旗本クラスの徳川帰属勢力はほとんど動かすことがなかったのである。もっともその後、元和三年から五年にかけて、建部・池田氏を播磨に移して尼崎藩戸田氏五万石を設けたり、大阪城の松平忠明を大和に移して大阪城周辺を直領にくり入れるなど、若干の補完作業をおこなったが、それにしても、大阪の陣後の、徳川一門・譜代大名の畿内への進出と畿内外様大名の他地方への転出は比較的簡単に進められ、元和年間もなかごろには、ほぼ幕藩体制にふさわしい配置が完了したのであった。