大阪城代制の創始

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 大阪の陣後、大阪に封ぜられた家康の外孫松平忠明は、いわば家康から大阪市街の復興を託されたといってよい。そして復興がほぼ成った元和五年(一六一九)七月、さきにも述べたように大和郡山に移封になった。忠明が領有していたところは、大阪城に近接している東成・住吉両郡の全域と西成郡の大半であったが、移封とともにすべて幕府の直領にくり入れられた。もちろん大阪の町も直領となったが、この段階で大阪に藩がおかれることはなくなり、大阪城代の制が創始された。すなわち元和三年以来伏見城代であった内藤信正が昇進して同五年大阪城代となった。このとき伏見城はとりこわされ、その番衆も大阪城に移り、ここに大阪城代制が始まったのである。
 大阪城代は、大阪定番(じょうばん)・加番(かばん)・大番頭らを率いて城中を警衛すること、東西大阪町奉行・堺町奉行を監督し、大阪三郷(北組・南組・天満組)および町つづきと堺を管理すること、摂・河・泉・播四ヵ国の直領の租税を徴収し、訴訟を裁決すること、西日本三〇余ヵ国の大名の動静を監察し、大名領内の事件の裁断をおこなうことを任とした。将軍に直属し、西日本に非常の事態がおきたときには独断で対処することが許されており、いわば将軍の代理役ともなる重職であった。
 この任務を遂行するため、大阪城内大手門に近く、千貫櫓(やぐら)の北に城内屋敷があって、ここに居住した。また城外清水谷にも屋敷がおかれていた。奏者(そうじゃ)番か寺社奉行であったものが任じられるのが普通であったので、城代には五万石以上の大名が任じられることが多かった。
 

写真125 大阪城京橋口門(大阪城天守閣提供)