大阪城代制につづいて元和九年(一六二三)に大阪定番制が生まれた。同年高木正次(河内国丹南藩主となる)が大阪城京橋口の定番に、稲垣重綱(越後国内)が玉造口の定番に任じられたのがはじまりである。大阪定番は老中が任命する役がらで、大阪城の京橋口と玉造口の二ヵ所にひとりずつおかれ、城内の定番屋敷に居住し、大阪城代の支配下にあって大阪城内の警備にあたった。一、二万石の大名が任命されることが多く、破損並材木奉行・具足奉行・鉄砲方・弓矢奉行・鉄砲奉行を支配下におさめ、それら奉行が支配する与力・同心を指揮して、城中を警護することを任としたものである。
この大阪定番の予備軍として定番に加勢するものに大阪加番があった。寛永三年(一六二六)に三名おかれたのがはじめで、のち四名となった。山里加番・中小屋加番・青屋囗加番・雁木坂(がんぎざか)加番である。一年交替でつとめ、毎年八月がその交替期であった。大阪加番は自分の家来を用いて警備にあたったので、所領の加増はないが、一万石の御役料を与えられた。