大阪城代領・定番領の成立

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 以上のように元和五年以降寛永年間にかけて大阪城代・大阪定番・大阪加番の制度が生まれ、あらたな大阪城を中心とする幕府の支配体制がととのった。そして城代・定番は、大阪での勤務のために、寛永以降所領を大阪周辺に移されるか、周辺に加増地が与えられるようになった。
 大阪城代についてみると、寛永三年、阿部正次(武蔵国岩槻藩)が豊島・能勢・川辺・有馬のうちにおいて三万石を加増されたのがはじまりである。はじめはかならずしも、城代に任じられればつねに移封や加増をうけるとはかぎらなかった。しかし寛文二年(一六六二)に青山宗俊が城代になったときからは、城代になれば大阪周辺へ移封されるか、所領の一部を大阪周辺に替え地として移されるか、あるいは本国の所領に加えて大阪周辺で加恩地が与えられることが慣例となっている。大阪での任務を全うするための処置であったから、任期が終われば大阪周辺の所領は公収され、直領にもどるのが原則であった。
 

写真126 大阪城玉造囗門跡の石垣


 
 ところが大阪定番は、城代とちがってたびたびこの役をつとめ、また加番の役につく機会も多かった。そのため、いったん大阪周辺に与えられた飛び地をかなり長く与えつづけられることが多く、いわば所領が定着する状況がみられた。初代の大阪定番高木正次が元和九年一〇〇〇石の加増をうけて河内国丹南郡に一万石を領有したのをはじめとするが、摂津では、宝塚市域とも関係のある保科(ほしな)正貞(上総国飯野(いいの)藩)が慶安元年(一六四八)豊島・能勢・川辺・有馬の四郡に一万石を加増され、また同年内藤信広が川辺郡その他で一万石を加増され、ともに大阪定番任命によって、万石以上の大名にとりたてられたのが初例である。