市域の城代領・定番領

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 宝塚市域に所領を与えられた大阪城代を表31に列挙した。大阪定番で宝塚市域に所領を与えられたものは、保科氏(正貞系)だけである。これらの例だけでは、城代領・定番領の大阪周辺における配置状況を察することはむずかしいが、ほぼつぎのような特徴をしめしている。
 

表31 宝塚市域に所領をもった大阪城代

大阪城代城代の任期領有国郡市域の領村領知高・藩名
青山宗俊寛文2(1662)・3・29~延宝6(1678)・6・17摂津(住吉・島下・川辺),河内、和泉、遠江、相模、武蔵平井(表32)旧30,000
加転20,000
旧小諸藩
太田資次延宝6(1678)・6・19~貞享1(1684)・4・6摂津(住吉・島下・川辺)、河内、和泉、下総・常陸平井旧32,000
加転20,000
旧浜松藩
土屋政直貞享1(1684)・7・10~貞享2・9・23摂津(東成・住吉・島上・島下・川辺)、河内、和泉、近江、常陸、上総平井(表34)旧45,000
加20,000
旧駿河田中藩
青山忠朝宝暦8(1758)・10・28~宝暦10・7摂津(武庫)、丹波川面旧50,000
篠山藩
阿部正允宝暦12(1762)・12・9~明和1(1764)・6・21摂津(島下・豊島・川辺・武庫)、武蔵,相模、上野安場・小浜・安倉のうち・中山寺・平井(表36)旧100,000
忍藩
阿部正敏天明4(1784)・5・11~天明7・4・2同上同上同上
青山忠裕寛政12(1800)・10・1~享和2(1802)・10・19摂津(川辺・武庫)、丹波川面旧50,000
篠山藩
阿部正由享和4(1804)・1・23~文化3(1806)・10・12摂津(島下・豊島・川辺・武庫)、武蔵安場・小浜・安倉のうち・中山寺・平井(表36)旧100,000
忍藩
青山忠良天保11(1840)・11・3~弘化1(1844)・12・28摂津(川辺・武庫)、丹波川面旧50,000
篠山藩

 
 大阪城代・大阪定番大名には河内・和泉に所領が与えられることもあるが、摂津に関していえば、川辺・豊島・島上・島下郡などで与えられることが多かった。大阪城を中心として円を描くとき、一〇キロメートル以遠、二〇キロメートル以内の圏内に与えられることが多かったのである(二二九ページ図4参照)。宝塚市域はその南部がやっと二〇キロメートルの圏内に入っているが、圏内といってもいわばもっとも遠い位置にある。したがって城代領・定番大名領となった村の数は尼崎・伊丹・豊中市域ほどには多くない。以下一七世紀における、市域を領有した大阪城代・大阪定番についてみていこう。
 

表32 寛文2年(1662)青山宗俊の所領

国名 郡村名 領知高
摂津 石合 石合
川辺郡(平井・満願寺・寺畑・加茂・椎堂のうち・法界寺・瓦宮・水堂のうち 2,147.389) 9,512.343
住吉郡(南田辺・北田辺・砂子・鷹合のうち・山内・遠里小野・大豆塚・奥・浅香山・寺岡・林寺・林寺新家 6,487.493)
(鳥上)
芥川郡(宮田
555.185)
島下郡(中条・下中条・夙名 322.276)
河内 若江・河内・茨田・讃良郡 28村 16,488.050
和泉 大鳥・泉・日根郡 23村 13,999.607
遠江 敷智郡 20村 5,000.000
相模 大住郡 6村 2,995.319
武蔵 橘樹・荏原郡 5村 2,004.771

(表高)
106村 50,000.090
50,000.000

〔注〕住吉郡林寺・林寺新家とあるのは東成郡の誤り、夙名村は芥川郡か