表31にしめしたとおり、市域に城代領が成立したはじめは、寛文二年の青山宗俊のときである。市域で領有したところは平井村一村であったが、この平井村は青山宗俊―太田資次―土屋政直と、寛文二年(一六六二)以来貞享二年(一六八五)まで一四ヵ年にわたって城代領としてつづいた。同村はさらに元禄七年(一六九四)からは累代大阪城代・京都所司代などを歴任した武蔵国忍(おし)藩阿部氏(忠吉系)の所領となり文政六年(一八二三)に至るから、市域ではもっとも典型的に大阪城代領ないし官僚大名領としてつづいた村といってよい。
1青山宗俊 青山宗俊は、寛永十二年(一六三五)に尼崎に入部した青山幸成の兄忠俊の子である。慶安元年(一六四八)に信濃国小諸藩三万石の大名に取りたてられたが、彼が大阪城代に任じられたのは寛文二年三月二十九日のことであった。このとき二万石を加増され、小諸を転じて大阪城、つまり城代屋敷を本拠とすることになった。所領五万石は表32にしめすとおりで、摂津三郡のほか河内・和泉・遠江・相模・武蔵の諸国にわたっている。延宝六年(一六七八)六月十七日老年に達した彼は職を辞した。それにともない平井村を含む大阪周辺の所領を公収された。『寛政重修諸家譜』に、同年八月十八日封地を遠江国(浜松藩)に移されたとしているから、大阪周辺の所領公収の日付はいちおうこの日と考えられる。しかし「太田家譜」によれば、つぎの大阪城代太田資次が摂津以下「大坂近辺」に所領を給する旨の辞令をうけたのは、これよりさき八月十一日のことである。そこでここでは、青山宗俊が平井村を公収された日付は、単に八月と記録するにとどめておこう。
青山氏はその後忠重の代、元禄十五年(一七〇二)九月七日浜松から丹波国亀山に封を転じ、さらに忠朝の代、寛延元年(一七四八)八月二日寺社奉行となったとき同国篠山に転じている。この篠山転封のときに、青山氏は川面村を飛び地として領有することとなり、ふたたび市域との関係が生じてくる。このことについては、のちにややくわしく述べたい(四四〇ページ参照)。