太田道灌の子孫も領有

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 青山宗俊が浜松に転じたあと大阪城代となったのは浜松藩太田資次である。
 2太田資次 太田資次は太田道灌(どうかん)(資長(すけなが))の子孫で、資次自身も太田道雄と名乗っている。太田氏は天正十八年(一五九〇)より徳川氏に仕え、資宗の代寛永十二年(一六三五)上野国山川藩一万五〇〇〇石、以後同十五年三河国西尾藩三万五〇〇〇石、正保元年(一六四四)浜松藩三万五〇〇〇石と転じた。
 資宗の子が資次で、延宝六年(一六七八)六月十九日大阪城代となったが、八月十一日二万石(じつは一万七〇〇〇石)の加増をうけ、浜松より転じて、摂津・河内・和泉・下総・常陸(ひたち)において五万二〇〇〇石を領することとなった。「太田家譜」のうち資次道雄譜につぎの記載がある。
 
   一同年(延宝六)八月十一日資次被為 召御加増之御書出シ御手自被下置候
                 下総国豊田郡之内
   高五万弐千三拾七石八斗之内 常陸国河内郡之内
                    新治郡之内
            四万石ハ大坂近辺ニて
 
四万石までが「大坂近辺ニて」与えられたというから、浜松を転じてやはり大阪城代屋敷を本拠とするようになったと思われる。
 前任者青山宗俊の摂津・河内・和泉での領知高は正確に四万石であったが(表32)、右にかかげた史料のしめすとおり、太田資次も大阪近辺で四万石をうけている。この大阪近辺というのは摂津・河内・和泉をさし、この三国で彼が与えられた所領の郡名も青山宗俊の場合とすべて同じである。そして摂津国川辺郡内の太田氏の領村についても、青山氏の所領とまったく同じ村々であることが確認できる。これらの点を考えあわすとき、太田氏が大阪近辺で与えられた四万石というのは、青山宗俊の領村をそのまま引きついだものと考えてよいようである。
 資次は貞享元年(一六八四)四月六日、大阪城内で死んだため、太田氏は同年六月十四日駿河国田中藩五万石に転じた。その後宝永二年(一七〇五)四月二十二日陸奥(むつ)国棚倉(たなくら)藩五万石、さらに享保十三年(一七二八)九月二十二日上野(こうずけ)国館林(たてばやし)藩五万石、延享三年(一七四六)九月二十五日遠江国掛川(かけがわ)藩五万石と転じた。以後は掛川藩として定着し、明治に及んでいる。