つぎに大阪城代になったのを契機としてではないが、市域に所領をもつようになり、長く領有をつづけ、その間に大阪城代・京都所司代をつとめた大名として、武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)がある。大阪城代制の創始にともなう大阪周辺の所領配置をみるうえで、この阿部氏は逸することのできない存在である。
阿部氏が摂津に加増地をうけた最初は、貞享三年(一六八六)であった。つづいて元禄七年(一六九四)にも摂津に加増をうけたが、阿部氏の家譜その他いまに残るすべての大名史料には、貞享三年に摂津国川辺郡において一万石が加増され、元禄七年に島下・豊島・武庫の三郡において一万石が加増されたようにしるしている。ここで問題になるのは、川辺郡の阿部氏領が貞享三年に加増されたとしている点である。地方史料をみるとき、川辺郡の阿部氏の領村のなかには、貞享三年ではなく、元禄七年に阿部氏領となったとしか考えられない村々があって、大名史料と地方史料との間に食いちがいがあるのである。この点は長らく解決できない問題として残っていたが、今回の市域の調査によって、完全に解決したとはまだいえないが、なかば解決のみとおしをえることができた。結論をいえば、川辺郡の阿部氏の領村には、貞享三年に与えられた村と、元禄七年に与えられた村とがあり、貞享三年に与えられた村のうちには、元禄七年に公収されてしまった村と、元禄七年以降も阿部氏領として残った村があるということである。それらの区分を念頭において、不詳の点もまだあるが、判明するかぎり阿部氏の領有について述べてみよう。
貞享三年正月二十一日、摂津において阿部氏に与えられた加増地は表35にしめしたとおりである。市域の領村は、上佐曽利・長谷・大原野・境野・安場・安倉(一部)・中山寺の七村であった。ところで、そこにも表示したように、わずかに八年だけ阿部氏領で、元禄七年に公収されてしまった村のある点が注目される。いまのところ市域の上佐曽利・長谷・大原野・境野の四村と、山原(やまのはら)・西畦野(うねの)・石道(いしみち)の三村(川西市)と、計七ヵ村が知られているが、このほかにも数ヵ村このように八年間だけ阿部氏に領有された村々のあったことが推測される。地方史料によって能勢郡吉川村も八年間だけの所領であったことが知られている。大名史料に、貞享三年には川辺郡において加増されたとしるされているが、能勢郡の村も含まれていたのであり、吉川村のほかにもまだ能勢郡に阿部氏の所領があったのかもしれない。