さてつぎに元禄七年四月二十一日あらためて阿部氏に与えられ、以後文政六年(一八二三)まで領有がつづいた村々を表37にしめした。そのなかには貞享三年以来阿部氏が領有してきた川辺郡の村々も含まれている。そしてさきに述べたように、この表にはあらたな川辺郡村々が加わっていることが注目される。大名史料は、元禄七年には島下・豊島・武庫の三郡において一万石を加増されたとしているが、じつは同年、あらたに加えられた川辺郡の村々もあったわけである。市域では小浜・平井の二ヵ村があらたに阿部氏領となった村である。ここに市域の阿部氏領は川辺郡安場・小浜・安倉(一部)・中山寺・平井の五村と武庫郡小林・鹿塩の二村、計七村となった。
大名史料はおそらく、川辺郡の村々については、貞享三年以来の村々の一部を公収し、その替え地を与えて加除相殺したとみたのであろう。そのため元禄七年には島下・豊島・武庫三郡において加増したとして、川辺郡を加増地に加えなかったのであろう。
なお貞享三年に与えられた西谷地区の上佐曽利・長谷・大原野・境野村が元禄七年に公収され、代わって市域南部の村々が与えられたことには、やはり意味があるように思われる。まえから述べているように、大阪城代その他の官僚大名の所領は大阪城から二〇キロメートルの圏内に多い。これに対して西谷地区は二〇キロメートルを越える遠隔地であったから、元禄七年の加増のさいに修正が加えられたと考えることはできないであろうか。
阿部氏は正武の代から正喬(まさたか)・正允(まさちか)・正敏(まさとし)・正識(まさつね)・正由(まさより)・正権と七代にわたって摂津を領有し、うち市域において数村を領有した。貞享三年から数えて一三七年、元禄七年から数えて一二九年の長きにわたる領有であった。その間、正允が大阪城代・京都所司代をつとめ、正敏が大阪城代を、さらに正由も大阪城代・京都所司代をつとめている。そして文政六年三月二十四日阿部氏が武蔵国忍から陸奥国白河に転封になったとき、摂津の、したがって市域の領村との領有関係も絶えた。阿部氏は白河藩として幕末に至ったが、戊辰(ぼしん)戦争に佐幕(さばく)派として官軍に反抗したため、城地を没収された。明治二年(一八六九)ゆるされ、陸奥国棚倉において六万石を領し廃藩をむかえた。