定番大名保科氏の市域領有

289 ~ 291 / 602ページ
 宝塚市域に所領をもった大阪定番大名に保科氏(正貞系)がある。市域に関係ある唯一の定番大名であるが、保科氏はさきにも述べたとおり、定番大名として摂津に飛び地を与えられた最初の大名なのである。
 

表38 保科氏(正貞系)略系図


 
 保科氏は正貞の代、寛永六年(一六二九)二月上総国周准(すず)郡・下総国香取郡において三〇〇〇石の知行を与えられていた。その後同十年四月に上総国望陀(もうだ)郡・安房国長狭(ながさ)郡・近江国伊香郡において四〇〇〇石を加増され、合わせて七〇〇〇石となった。そして慶安元年(一六四八)六月二十六日正貞が大阪定番となったとき、摂津国豊島・川辺・能勢・有馬の四郡において一万石の加増をうけて一万七〇〇〇石の新大名となった。このとき市域米谷村の一部が保科氏領となったのである。江戸詰めを本則とする定府(じょうふ)大名なので、城下町はなく、本拠とする陣屋は上総国周准郡飯野においた。
 ただそのとき正貞に与えられた摂津四郡内の領村はかならずしも、すべてを明らかにすることはできない。それはのちに述べるように、寛文二年(一六六二)に多田銀山付村の設定がなされ、保科氏の領村に若干の入れ替えがおこなわれたためである。この入れ替えについては、能勢郡の所領をさいて川辺・有馬両郡のうちに新領を得たことがわかっているだけで、くわしいことはわからない。そのため入れ替え後の時代の保科氏の領村については史料があって判明するが、入れ替え以前、つまり慶安二年所領を摂津に与えられた当初の領村はすべてを明らかにすることができない。この事情から、ここには寛文二年以後の保科氏の摂津における所領を表39としてしめすことしかできないのである。
 

表39 寛文2年(1662)以後の摂津における保科氏(正貞系)の所領

郡名村名領知高
石合
川辺米谷のうち・西桑津・岩屋・酒井・堀池・富田のうち・戸之内・岡院のうち・若王寺のうち3,170.899
豊島小曽根・浜・長島・北条・寺内・石蓮寺・長興寺のうち・新免・轟木・勝部のうち・走井のうち・桜のうち・垂水のうち3,186.912
能勢森上・今西・大里・長谷1,039.632
有馬塩田のうち・二郎・道場河原・上宅原・岩谷・上津下のうち2,707.901
10,105.344
(表高)(10,000.000)

 
 保科氏が大名となってからの所領の変遷についていえば、まず寛文元年正景(まさかげ)が家督をついだとき、正貞の養子正英(まさふさ)に二〇〇〇石を分知した。このためいったん所領は一万五〇〇〇石に減じている。しかし延宝五年(一六七七)七月七日正景が大阪定番に任じられたとき、丹波国天田郡において五〇〇〇石の加増をうけ、旧領と合わせて二万石となった。その後は、正率(まさのり)の代の天明五年(一七八五)十月上総国の一村と安房国の一村が上知(じょうち)(知行地公収)されて、代わりに上総国周准郡で三ヵ村、同武射郡で二ヵ村を与えられたこと、正徳(まさのり)の代文化八年(一八一一)に周准郡の二ヵ村が上知され、その替え地として下総国香取郡で二ヵ村を与えられたことなどの変化はあったが、領知高に変化はなく、延宝以来二万石の大名として明治に至った。なお摂津の所領についても、寛文二年以来変化はなく明治に及んだ。保科氏は大阪定番役・加番役をつとめることが多く、したがって大阪に在勤することも長かったため、その摂津の領有は、定着した形で長くつづいたのである。