元和年間に大阪城代制・大阪定番制が創設され、やがて城代・定番大名に大阪周辺で所領を与えることが慣例化し、大阪を中心とする幕藩制的所領配置がととのったのは、寛文年間(一六六一~七二)のことであった。その間にあって外様大名ながら豊臣時代以来の摂津の所領を保持しつづけ、江戸時代まで生きのこった大名がいた。麻田(あさだ)藩青木氏である。そして青木氏は寛永四年(一六二七)には市域にも所領をもつことになっている。
青木氏は重直(しげなお)の代今川義元に仕えたが、のち豊臣氏に仕えて摂津国豊島郡牧荘(箕面市)と蒐原郡筒井村(神戸市)を与えられた。牧荘は槇村・西小路村・落村・平尾村の四集落からなり、石高は一四〇〇石、筒井村は三六七石五斗であったから、一七〇〇石余の知行であった。その子一重(かずしげ)も今川氏滅亡ののち元亀元年(一五七〇)徳川家康に仕えるようになって、その年の姉川の戦い、同三年の三方ヶ原の戦いに参加した。しかしのち天正十一年(一五八三)からは羽柴秀吉に仕え同十三年に豊島郡豊島荘(三一〇〇石)と備中国に六ヵ村、伊予国に二七ヵ村、合わせて一万石余を与えられている。
慶長十八年(一六一三)父重直が死に一重はその遣領を引きついだが、まもなく大阪の陣が起こり、冬の陣には一重は大阪方に属して鴫野(しぎの)口の防戦に参加した。しかし夏の陣が起こる直前、豊臣秀頼の使節として関東へ下り、家康と会見しそのまま江戸にとどまった。豊臣氏が滅んだのち、一重はいったん剃髪(ていはつ)したが、右の事情とかつて家康に仕え姉川などで功をたてたことも加わってのことであろうか、元和元年(一六一五)家康に迎えられ、豊臣氏のもとで与えられていた旧領はそのまま領有を認められている。
一重の所領は摂津国豊島郡牧荘・豊島荘、蒐原郡筒井村および備中・伊予両国のうちにおいて一万二〇〇〇石となったが、その直後元和元年から同三年六月までの間に、一重は父重直の遺領を弟可直(よしなお)に分知したので、ふたたび一万石の領有にもどった。
さてこの青木氏は、寛永四年(一六二七)六月、伊予国の所領に代えて摂津国豊島・川辺両郡に所領を与えられた。表41にしめしたとおりこのとき市域上佐曽利・下佐曽利・波豆の三ヵ村も青木氏の領有になったのである。川辺郡の他の村々では、さらに奥地(三田市高平地区)において与えられた。豊島郡の所領は旧豊島荘のほかに若干の村々が加わったものと思われる。本拠とする陣屋は豊島郡麻田村(豊中市)におかれた。
ところがさきに述べた保科氏もそうであったが、寛文二年(一六六二)につぎに述べるように銀山付村の設定という幕府側のつごうによって、青木氏の領村の一部が公収された。上佐曽利・下佐曽利両村はこのとき川辺郡林田・笹尾村(猪名川町)・豊島郡上止々呂美村(箕面市)とともに公収され、その替え地として川辺郡北村(鋳物師(いもじ)村を含む)と大鹿村(以上伊丹市)が与えられた。こうして市域では波豆村のみが青木氏領として残り、その後は他の青木氏領にも変化はなく、そのまま明治を迎えている。