寛文年間多田銀銅山は最盛期を迎えた。それまで幕府は京都にいる代官中村杢右衛門之重(もくえもんゆきしげ)に多田銀銅山を支配させてきたが、にわかに銀・銅の産出量が増加したため、寛文元年(一六六一)中村を銀山(猪名川町)に赴任させ、そこに陣屋を建てて多田銀銅山を奉行させることにした。翌二年二月十五日には川辺郡五一ヵ村、能勢郡一三ヵ村、豊島郡六ヵ村の計六九ヵ村と、ほかに能勢郡の垂水・天王・山田・上杉の四ヵ村を加えた七三ヵ村をいわゆる銀山付村として、銀山の奉行と合わせて中村之重に支配させることにしたのである。銀山付村のうち六九ヵ村は多田銀銅山の範域であり、能勢郡四ヵ村は開歩(坑道)はないが、銀山の吹屋(ふきや)(製錬所)で使う炭を多量に焼いているので、とくに加えられたものであった。
この銀山付村を指定するにあたり、いままで大名領であったところを公収し、その大名には替え地を与える措置がとられた。公収の対象となった大名領は上総国飯野藩保科正景・摂津国麻田藩青木重兼・同国高槻藩永井直清・武蔵国岡部藩安部信盛の所領であった。すでに述べた保科・青木両氏の所領の取りかえは右の事情にもとづいておこなわれたものであった。