市域所領の定着した姿

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 この銀山付村の指定と、さきに述べた大阪城代領・大阪定番領の設定の恒常化にもとづいて、寛文年間には宝塚地方の所領配置もほぼ定着した。
 表42によって、まず寛文二年段階の状況をみると、市域北部西谷地区は麻田藩青木氏の所領が一ヵ村(波豆村)あるほかは、すべて銀山付村として直領となっている。一方、市域南部は多くが尼崎藩青山氏領・大阪城代青山氏領・大阪定番保科氏領など私領にあてられたことがわかる。そしてこの寛文二年段階ではまだ直領が南部に残っていたが、それも元禄七年(一六九四)には忍藩阿部氏領となってしまう。こうして北部地区は直領、南部地区は私領と、南北両地域の対照は明確となっていった。
 

表42 定着期の市域村々の領有

村名 領主寛文2年領主名元禄7年領主名
<武庫郡>
伊孑志尼崎藩 青山幸利尼崎藩 青山幸督
小林直領忍藩 阿部正武
蔵人尼崎藩 青山幸利尼崎藩 青山幸督
鹿塩旗本 喜多見重恒忍藩 阿部正武
<川辺郡>
上佐曽利直領直領
下佐曽利
長谷
大原野
波豆麻田藩 青木重兼麻田藩 青木重矩
境野直領直領
玉瀬
切畑
南切畑
<武庫郡>
川面尼崎藩 青山幸利尼崎藩 青山幸督
見佐
<川辺郡>
安場直領忍藩 阿部正武
米谷小泉藩 片桐貞昌小泉藩 片桐貞房
飯野藩 保科正景飯野藩 保科正賢
小浜直領忍藩 阿部正武
安倉
中山寺
中筋旗本 渡辺正旗本 渡辺忠
山本旗本 板倉重大旗本 板倉重浮
平井大阪城代 青山宗俊忍藩 阿部正武

 
 なおこの定着までの段階において市域を領有した領主が、これまで述べた領主のほかに二氏いる。寛永十九年(一六四二)から延宝四年(一六七六)まで山本村を支配していた板倉氏(重大系)と、寛文七年~延宝八年(一六六七~八〇)のころから貞享三年(一六八六)ごろまで安倉村(大部)を知行していた梁田(やなだ)氏(正勝系)である。
 京都所司代板倉勝重の四男である板倉重大(しげもと)は寛永十九年三月十二日知行地として川辺郡に一〇〇〇石を与えられた。この一〇〇〇石というのは、山本村一村のことである。その後天和元年(一六八一)七月二十二日に下野国芳賀郡において二〇〇〇石の加増を、八月十六日にはさらに加増をうけて六〇〇〇石となっている。つぎの重浮(しげゆき)の代に下野の知行地に代わる替え地を近江国に与えられた。しかし勝該(かつかね)の代になって、殿中で狂気し細川越中守宗孝を切って傷を負わせた科(とが)で死を命じられ、延享四年(一七四七)八月二十三日絶家となった。このため山本村は公収されて直領となった。
 つぎに梁田氏については、右に述べたように寛文・延宝ごろから貞享三年正月二十一日阿部正武の所領となるころまで、直次とその子半兵衛某の二代にわたって安倉村を知行した史料がある。直次は知行地一五〇〇石をもっていたことが知られるので、おそらく安倉村と万多羅寺(まんだらじ)村(尼崎市)の両村を与えられていたものと思う。