この節の最後に、江戸時代における領知の変遷を個々の村ごとにたどっておこう。江戸時代中期・後期の領主については、のちにあらためて述べることとする。
≪良元地区―武庫郡―≫
1伊孑志村 はじめ徳川幕府直領であったが、元和三年(一六一七)七月二十五日戸田氏鉄(氏輝系)―尼崎藩―の所領となる。寛永十二年(一六三五)七月二十八日、尼崎藩として戸田氏のあとに入封した青山氏(幸成系)の所領となったが、宝永八年(正徳元年・一七一一)二月十一日直領にもどる。文政十一年十月松平氏(桜井松平、信定系)―尼崎藩―の所領となり、明治に至った。
2小林村 はじめ片桐且元(且元系)―大和国龍田藩―の所領であったが、寛永十五年(一六三八)八月朔日孝利(且元の子)死し、子がないため同年十一月十日為元(且元の四男)を嗣としたさい、公収(減封)されて徳川幕府直領となる。元禄七年(一六九四)四月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍(おし)藩―の所領となる。文政六年(一八二三)三月二十四日直領にもどったが、同十一年十月松平氏(信定系)― 尼崎藩-の所領となり、明治に至った。
3蔵人村 (1伊孑志村に同じ。)
4鹿塩村 はじめ直領であったが、元和二年(一六一六)喜多見勝忠の知行所(天和三年・一六八三・正月十一日一万石、貞享三年・一六八六・正月十一日二万石)となる。元禄二年(一六八九)二月二日重政の代、勤務をおろそかにしたとして召し放たれた。そのさい公収されて直領にもどる。元禄七年(一六九四)四月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となる。文政六年(一八二三)三月二十四日直領にもどったが、同十一年十月松平氏(信定系)―尼崎藩―の所領となり、明治に至った。
≪西谷地区―川辺郡―≫
5上佐曽利村 はじめ徳川幕府直領であったが(注)、寛永四年(一六二七)六月青木氏(重直系)―摂津国麻田藩―の所領となる。寛文二年(一六六二)二月十五日直領にもどる。貞享三年(一六八六)正月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となったが、元禄七年(一六九四)四月二十一日直領にもどり、そのまま明治に至った。
枝郷香合(こうばこ)新田(貞享三年二六八六)に高入れか。開村年次不明。)
(注)文禄四年(一五九五)八月十七日より元和元年(一六一五)までの間片桐且元の所領であったと思われる。
6下佐曽利村 はじめ徳川幕府直領であったが(注)、寛永四年(一六二七)六月青木氏(重直系)―摂津国麻田藩―の所領となる。寛文二年(一六六二)二月十五日直領にもどり、そのまま明治に至った。
(注)5上佐曽利村の注に同じ。
7長谷村 はじめ徳川幕府直領であったが(注)、貞享三年(一六八六)正月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となる。元禄七年(一六九四)四月二十一日直領にもどり、そのまま明治に至った。
枝郷芝辻新田(延宝七年(一六七九)高入れ。開村年次不明。)
(注)5上佐曽利村の注に同じ。
8大原野村 (7長谷村に同じ。)
(注)慶長八年(一六〇三)ごろより元和元年(一六一五)までの間片桐且元の所領であったと思われる。
9波豆村 はじめ徳川幕府直領であったが、寛永四年(一六二七)六月青木氏(重直系)―摂津国麻田藩―の所領となる。そしてそのまま明治に至った。
10境野村 (7長谷村に同じ。)
11玉瀬村 江戸時代を通じて徳川幕府直領であった。
12切畑(きりはた)村(北畑) (11玉瀬村に同じ。)
13南切畑村(南畑) (同右)
枝郷鳥ヶ脇村
枝郷立合新田 (享保十九年(一七三四)高入れ。開村年次不明。)
≪小浜地区―武庫・川辺郡―≫
14川面村(注) はじめ徳川幕府直領であったが、元和三年(一六一七)七月二十五日戸田氏鉄(氏輝系)―尼崎藩―の所領となる。寛永十二年(一六三五)七月二十八日、尼崎藩として戸田氏のあとに入封した青山氏(幸成系)の所領となったが、宝永八年(正徳元年・一七一一)二月十一日直領にもどる。延享四年(一七四七)七月二十二日松平信岑(のぶみね)(形原(かたのはら)松平・与副系)―丹波国篠山藩―の所領となる。翌寛延元年(一七四八)八月三日、篠山藩として松平氏のあとに入封した青山氏(忠俊系)の所領となり、そのまま明治に至った。
(注)はじめ川面村の大部は武庫郡に属し、村の小部が川辺郡に属していたが、享保十九年(一七三四)五月全村武庫郡に属することとなった(三二一ページ参照)。
15見佐(みさ)村(注) はじめ徳川幕府直領であったが、元和三年(一六一七)七月二十五日戸田氏鉄(氏輝系)―尼崎藩―の所領となる。寛永十二年(一六三五)七月二十八日、尼崎藩として戸田氏のあとに入封した青山氏(幸成系)の所領となったが、宝永八年(正徳元年・一七一一)二月十一日直領にもどり、そのまま明治に至った。
(注)はじめこの村は川辺郡に属していたが、寛永期をすぎてまもないころ武庫郡に属することになった。その後村は一七世紀中ごろの洪水で川辺郡小浜村寄りに移ったので、のち明治二十二年(一八八九)四月一日川辺郡に編入された(三一五ページ参照)。
16安場村 はじめ徳川幕府直領であったが、貞享三年(一六八六)正月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となる。文政六年(一八二三)三月二十四日直領にもどったが、文政十年二月十八日一橋徳川氏領となる。慶応四年(明治元年・一八六八)二月五日維新政府によっていったん没収せられたが、同年七月二十五日同家の手にもどされた。そして明治三年(一八七〇)正月十日同家が北海道十勝国開拓の 命をうけたときまで同氏領としてつづいた。
17米谷(まいたに)村 はじめ徳川幕府直領であったが、慶長十九年(一六一四)以降入組支配となる。すなわち、
(イ)村の大部 慶長十九年六月片桐氏(貞隆系)―大和国小泉藩―の所領となり、そのまま明治に至った。
(ロ)村の小部 慶長十九年以後もひきつづき直領であったが、慶安元年(一六四八)六月二十六日保科氏(正貞系)―上総国飯野藩―の所領となり、そのまま明治に至った。
枝郷蕨野(わらびの)村 ((イ)村の大部に同じ。)
18小浜(こはま)村 はじめ徳川幕府直領であったが、元禄七年(一六九四)四月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となる。文政六年(一八二三)三月二十四日直領にもどったが、文政十年二月十八日一橋徳川氏領となる。慶応四年(明治元年・一八六八)二月五日維新政府によっていったん没収せられたが、同年七月二十五日同氏の手にもどされた。そして同氏領として明治三年(一八七〇)正月十日に至った。
19安倉(あくら)村 はじめ徳川幕府直領であったが、寛文七年~延宝八年(一六六七~八〇)のころ入組支配となる。すなわち、
(イ)村の大部 寛文七年~延宝八年のころ梁田氏(正勝系)の知行所となったと思われる。そしてその知行所として貞享三年(一六八六)に至ったと思われる。同年正月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となる。文政六年(一八二三)三月二十四日直領にもどったが、文政十年二月十八日一橋徳川氏領となる。慶応四年(明治元年・一八六八)二月五日維新政府によっていったん没収せられたが、同年七月二十五日同氏の手にもどされた。そして同氏領として明治三年(一八七〇)正月十日に至った。
(ロ)村の小部 村の大部が梁田氏の知行所となったのちもひきつづき直領であったが、延享三年(一七四六)九月十五日田安徳川氏領となる。慶応四年(明治元年・一八六八)二月五日維新政府によっていったん没収せられたが、同年七月二十五日同氏の手にもどされた。そして同氏領として明治三年(一八七〇)正月十三日―兵庫県への実質編入は四月十三日―に至った。
枝郷鳥島村 ((イ)村の大部に同じ。)
(注)16安場村以下19安倉村までの旧小浜地区の村々は川辺郡に属している。
≪長尾地区―川辺郡―≫
20中山寺村 はじめ徳川幕府直領であったが、貞享三年(一六八六)正月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となる。文政六年(一八二三)三月二十四日直領にもどったが、同年七月八日一橋徳川氏領となる。慶応四年(明治元年・一八六八)二月五日維新政府によっていったん没収せられたが、同年七月二十五日同氏の手にもどされた。そして同氏領として明治三年(一八七〇)正月十日に至った。
21中筋村(小池) 慶長三年(一五九八)渡辺氏(重(しげ)系)の知行所となり、そのまま明治に至った。
22山本村 はじめ幕府直領であったが、寛永十九年(一六四二)三月十二日板倉氏(重大系)の知行所となる。延享四年(一七四七)八月二十三日板倉氏絶家となり、公収されて直領となる。文政十年(一八二七)二月十八日一橋徳川氏領となる。慶応四年(明治元年・一八六八)二月五日維新政府によっていったん没収せられたが、同年七月二十五日同氏の手にもどされた。そして同氏領として明治三年(一八七〇)正月十日に至った。
枝郷平井村 (寛永十九年分村。23平井村参照。)
枝郷丸橋村(天正・文禄(一五七三~九五)のころ開村。寛延元年(一七四八)本村と高を分けた。支配本村に同じ。)
枝郷口谷(くつたに)村 (慶長(一五九六~一六一四)のころ開村。寛延元年(一七四八)本村と高を分けた。支配本村に同じ。)
枝郷野里村(寛永のころ開村か。支配本村に同じ。)
23平井村 はじめ徳川幕府直領であった。寛永十九年(一六四二)山本村より分村した。その後も直領であったが、寛文二年(一六六二)三月二十九日大阪城代青山宗俊(忠俊系)―信濃国小諸藩より転ずる―の所領となって延宝六年(一六七八)に至る。この年六月十七日宗俊が大阪城代を辞したにともない八月直領にもどったが、同月十一日大阪城代太田資次(資清系)―遠江国浜松藩より転ずる―の所領となる。貞享元年(一六八四)直領にもどる。翌年七月十日大阪城代(二年九月二十三日京都所司代)土屋政直(数直系)―駿河国田中藩―の所領となり、同四年十月二十一日直領にもどった。元禄七年(一六九四)四月二十一日阿部氏(忠吉系)―武蔵国忍藩―の所領となる。文政六年(一八二三)三月二十四日直領にもどったが、同年七月八日一橋徳川氏領となる。慶応四年(明治元年・一八六八)二月五日維新政府によっていったん没収せられたが、同年七月二十五日同氏の手にもどされた。そして同氏領として明治三年(一八七〇)正月十日に至った。