この表をみると、文禄以来正保までほとんどの村において村高に変化のないことがわかる。このことは文禄の太閤検地以来一七世紀の前半期には、検地がおこなわれなかったことをしめしていると思われる。わずかに佐曽利・波豆・安倉村において元和~正保の間に村高の増加がみられるにすぎない。
元和の村高帳に比べて正保の段階には、佐曽利村で八石五斗六升、波豆村で一一石五斗五升の村高の増加がみられるが、いまのところ増加の契機などは明らかにできない。しかし村高の増加はごくわずかなので、検地をおこなった結果の変化とは思えない。ただ安倉村では元和と正保の間に一一四石八斗七升四合の大差がある。この村では元和八年に建部与十郎が検地奉行となって検地がおこなわれたことが知られているので、村高の大きな変化は元和八年の検地によって生じたものと考えられる。
表44 17世紀前期の新田開発
村名 | 新田高 | 検地年代 |
---|---|---|
石合 | 寛永6(1629) | |
伊孑志 | 43.227 | |
蔵人 | 27.863 | |
境野 | 26.136 | |
川面 | 209.346 | |
米谷 | 16.439 | |
平井 | 6.296 |
なお表43は文禄から正保までの村高=本高の変化をみるために作成したもので、新田高の増加については表現していない。近世初頭以来本田に加えてあらたに開発された新田の検地がおこなわれ、新田高の増加がみられるが、これについては別に表44として、一七世紀前期における新田開発の状況をしめした。右に述べた安倉村の検地で村高が一一四石余増加したのには新田高も加えられたことが考えられるが、それを除けば、川面村の新田開発が二〇九石三斗四升六合と大きいほかは、それほどめだつ開発はなく、一七世紀前期、つまり近世初頭にはそれほど新田開発が盛んにおこなわれたとはいえない。
表45 市域とその近辺における村切りの過程
慶長10年国絵図 | 元和3年高改帳 | 正保3年郷帳 | |||
---|---|---|---|---|---|
川辺郡 | |||||
上サカソリ村 | 石合 | 石合 | 石合 | ||
中サカソリ村 | 390.900 | 佐曽利村 | 390.900 | 佐曽利村 | 402.460 |
下サカソリ村 | 下佐曽利村 | ||||
畑村 | 170.060 | 北南 切畑村 | 170.060 | 北畑村 | 75.430 |
南畑村 | 94.630 | ||||
鳥脇村 | 25.642 | ||||
小池村 | 617.677 | 中筋村 | 617.670 | 中筋村 | 617.670 |
中筋村 | |||||
山本村 | 1,259.300 | 山本村 | 1,259.250 | 山本村 | 1,000.000 |
畠野村 | 平井村 | 259.250 | |||
十倉村 | 146.886 | 十倉 | 十倉村 | 172.782 | |
河原村 | 川原 | 川原村 | 310.224 | ||
田中村 | 465.045 | 田中 | 田中村 | 84.829 | |
フキ村 | ふき村 | 1,084.430 | 布木村 | 71.888 | |
中村 | |||||
堺井村 | さかい | 酒井村 | 266.900 | ||
下村 | 472.500 | 下村 | 下村 | 107.249 | |
カワラノ村 | 川田 | 片古村 | 106.963 | ||
荒牧村 | 荒牧 | 荒牧村 | 252.253 | ||
荻野村 | 1,782.50 | 荻野 | 1,782.050 | 荻野村 | 512.728 |
鴻池村 | 鴻池 | 鴻池村 | 420.207 |