近世的行政村の成立

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 つぎに、さきにかかげた近世初期の三つの史料にしるす村名についてみよう。
 まず慶長十年の摂津国絵図をみると、複数の村が村高のうえでは、一単位として表現されている例に出会う。たとえば表45に例示した佐曽利村についていうと、村名はそれぞれ小判形のかこみのなかに、上サカソリ(佐曾利)村・中サカソリ村・サカソリ村としるされている。しかし村高の方はこの三村を一括して三九〇石九斗としるしている。市域ではこのほかに、小池村・中筋村、山本村・畠野村(平井・口谷・丸橋・野里のいずれかをさすものと思われる)の例も佐曽利村と同じ例にあたる。
 

 
 ところがこの慶長の国絵図より年代の新しい元和三年の摂津一国高御改帳では、これらの村々はつぎのようにしるされていて、三例ともそれぞれ一村として表現されている。
 
              (長谷川忠兵衛預かり)
  三百九拾三石九斗     同  さそり村
               渡辺筑後知行
  六百拾七石六斗七升    中筋村
               建部三十郎預り
  千弐百五拾九石弐斗五升  山本村
 
 これをどう理解するかを考えるにあたっては、慶長の国絵図と元和の高改帳とは史料としてまったく性格を異にするものであることをじゅうぶん認識しておく必要がある。たとえばこのふたつの史料の記述を比較して、佐曽利村は慶長十年当時は三つの村であったが、元和三年には統合されて一村になったと考えるのは誤りなのである。国絵図の方は絵図という性質上、視覚的に表現することが多い。だから村がいくつかの集落に分かれているとか、本村のほかに枝村があるとかの場合に、その状況がわりあいに忠実に表現されているのである。これに対して高改帳の方はあくまで領主が年貢を収取するために使う台帳であり、行政村をしるすのを主目的としている。したがってその行政村がじっさいにふたつなり三つなりの集落に分かれていようが、かならずしもその状況を村高帳に表現することは必要ないわけである。要するに絵図の方は視覚的に集落がいくつかに分かれている状況をえがき、高改帳の方は行政村をしるす目的のものであるということである。この国絵図と高改帳の表現の質的相違、史料としての性格の違いを念頭において表45をみる必要がある。
 

写真135 慶長10年摂津国絵図
佐曽利村付近(西宮市立図書館所蔵)


 
 ふたたび佐曽利村に例をとれば、慶長に三村であったものが元和に一村になったのではなく、この村は慶長、いなそれ以前から、三集落から成っていたが、行政村としては佐曽利村として把握され、村高は三集落一単位で三九三石九斗と表示されているとみるべきである。
 さらに佐曽利村についてその後を追ってみると、正保郷帳でも村名は「佐曽利村 下佐曽利村」としるされ、村高では一村として扱われている。しかしこの表では表現できなかったが、やがて元禄郷帳では上佐曽利村と下佐曽利村の二村に村名・村高が分かれてしまう。ということは正保と元禄の間に佐曽利村が二村に村切りされたことをしめすものである。
 いまこの佐曽利村についておこなった説明を念頭において表45をみられたい。市域の例では切畑村は元和には北と南に集落が分かれていたが、石高のうえではまだ一村として扱われていた。それが正保には北畑村と南畑村とに村切りされていることがわかる。同様、山本村も切畑村と同じ時期に山本村と平井村に村切りになっていることがわかるであろう。
 なお、表45にしめした市域外の例としてあげた十倉村以下の七村(集落)のグループはいわゆる高平地区(三田市)を構成する村々で、地域的に広いためにおそらく文禄検地にさいしては三つに分けて検地がおこなわれたのであろう。そのことを慶長の国絵図はしめしている。しかし村高としては、元和の高改帳がしめすように七集落が一村として扱われたと考えられる。そしてやがてこの七集落が正式に村高のうえで村切りになったことを正保郷帳がしめしているとみられるのである。