村切りの完了

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 以上みたように表45を分析していくと、佐曽利村が上佐曽利村と下佐曽利村とに村切りされるのは正保よりあとであるが、他の例はすべて元和―正保の間に、近世の村に村切りされたことがわかる。元和―正保の間といえば寛永期(一六二四~四三)である。もちろん大多数の村では近世的村への村切りはすでに中世末、近世初頭に終わっていたのであるが、まだ村切りが終わっていなかった残りすくない村々の村切りも、寛永期にはほぼ完了したといえよう。
 近世初頭は中世に接続する時期なので、この時期には中世の行政単位であった荘・郷の範囲が解体しないまま残ることがあった。そして現実の行政支配や年貢の取りたての場合、あるいはいろいろな村内生活の面で、いくつかの集落を含む中世の行政範囲が、行政や生活単位としてなんらかの意味を、なおもちつづけていたのである。しかしやがて中世的単位は解体し、集落がそれぞれ独立して近世的行政村となっていった。このいわゆる村切りが宝塚地方で完了するのは、寛永期であったのである。
 なかには村切りの時期がはっきりしている村がある。山本村と平井村の場合がそれである。山本・口谷・丸橋・平井の四集落からなる山本村は、平井を除く三村(集落)が寛永十九年(一六四二)三月十二日板倉氏(重大系)の知行所となるが、山本村(口谷・丸橋を含む)と平井村とが村切りされるのはこのときである。元禄七年(一六九四)の一文書につぎのようにしるされている。
 
  寛永十九壬午年山本村高千石板倉市正様御拝領之時平井村・山本村高わかり候、割り残し之由右高三石九斗之御年貢山本村より平井村御地頭様え年々斗り来候儀永々まて紛無御座候
 
つまり村切りが寛永十九年におこなわれ、山本村の村高が一〇〇〇石と表現されることになったが、板倉氏に山本村一〇〇〇石を与える関係上山本村の村高を一〇〇〇石、平井村を二五九石二斗五升と分割したものの、じっさいの村高は山本村が一〇〇三石九斗であり、平井村が二五九石二斗五升より三石九斗少なかったのであろう。そのため村切りにあたって両村で協定し、平井村を支配する領主に、高三石九斗に対する年貢を山本村から年々納めることを約束したことがわかるのである。元禄七年たまたま平井村の領主が武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)に代わったので、領主が代わっても右の約束は変わらない旨を確認したのが、この文書なのである。
 ともかくこの文書によって山本村・平井村の村切りが寛永十九年と確認できよう。
 表45には荒牧村のグループしか例示しなかったが、尼崎藩領の村々の村切りは寛永十二年戸田氏鉄が美濃国大垣に転出し、代わって青山幸成が尼崎藩として入部したときおこなわれている。荒牧・荻野・鴻池が三村に村切りされたのをはじめとして、尼崎藩領での村切りは寛永十二年の領主交替のときに完了したのである。
 以上の説明によっておよそ村切りは領主の交替期とか、村が二領主に分割支配されるようになった時期とかにおこなわれることが多く、しかも時期的には寛永年間にほぼ村切りが完了したことが知られよう。佐曽利村は近世初頭に領有が二領主に分かれることがなかったために、逆に村切りがおくれたといえ、山本・口谷・丸橋の場合も板倉氏に一括して知行所として配分された関係と、口谷・丸橋が小集落であったことから、村切りが寛永期になされないままになった。しかしこれらの村の場合も、事実上は江戸時代に口谷村・丸橋村として、独立した村としての行動をとっている。したがって総じて寛永期を村切り完了の時期とみて誤りはない(山本・平井両村の昆陽野芝地における村切りについては四六三ページ参照)。