近世初頭の村の問題で、ぜひふれておかなければならないのは、見佐村の所属郡のことである。同村は伊孑志村の東、逆瀬川が武庫川に注ぎこむ地点のすぐ下流にあった。元和三年(一六一七)当時の村高は八石六斗二升、寛永(一六二四~)以降は江戸時代を通じて八石六斗三升であったので、ごく小さな村であったといえる。
この村は武庫川の流路が変わるにつれて、ときには川筋の左岸となり、ときには右岸となったようである。その関係からか、この村は近世初頭には川辺郡に属していたのに、まもなく武庫郡に属するようになっている。この点の説明が必要なのである。
見佐村の存在が明らかになるのは、元和三年六月の「摂津一国高御改帳」が初見である。同帳では川辺郡のところに片桐貞隆預かりの直領としてでてくる。それ以前の慶長十年(一六〇五)の摂津国絵図には、見佐村はえがかれていない。それは、村ができていなかったためか、それともたまたま小村であるため書きもらされたものか明らかでない。それはともかくとして、元和三年には「摂津一国高御改帳」に村名がみえるほか、同年七月尼崎藩として入部した戸田氏の知行目録にも、見佐村は川辺郡のなかに入れて、高も同じく八石六斗二升の村としてでている。元和当時この村が川辺郡に属していたことはまちがいない。
ところが戸田氏の大垣移封のあとをうけて寛永十二年(一六三五)尼崎に入部した青山氏(幸成系)の時代になると、同村は川辺郡ではなく、武庫郡に属するようになっている。入部当初の知行目録はないが、寛文四年(一六六四)の知行目録では武庫郡に入っている。それと符合するかのように、正保年間(一六四四~四七)に作成された国絵図のひとつ、大分県竹田市立図書館所蔵のものでは、南下する武庫川の流路の西側、つまり武庫郡側に「見佐」の文字がしるされている。
この正保国絵図では、武庫川堤の線が、右岸は見佐村のすぐ南から下流に向かってしっかりした線で、連続してえがかれているが、見佐村のところには堤はなく、伊孑志村と地つづきの形にえがかれている。しかし着色の様子からみると、武庫川の川床にあたるような位置にえがかれているのである。安場村方向から南東へと流れてきた武庫川の流路が、南の方向に転じた地点の西に位置しているため、当時この村は川床にありながら、大水がでても流される心配がなかったのであろう。
ほかにもうひとつ、国立公文書館(内閣文庫)所蔵の正保国絵図がある。それはかなり大きな絵図で、ごくおおざっぱではあるが、国郡界がしるされているのが特徴である。この絵図は現在川辺郡の部分はあるが、武庫・有馬郡などの部分を失っている。しかし武庫・有馬郡と川辺郡の郡界ははっきりしており、川辺郡内に見佐村はみえない。この絵図でも、見佐村は武庫郡に属する村として記載されていたのであろう。
このように見佐村は正保までに川辺郡から武庫郡へと所属の変更がみられたが、この幕府が作成させた正保国絵図は、おそらく国郡界を確定するうえに大きな役割を果たしたと思われる。のちにも述べるように、その後一七世紀中ごろの洪水によって見佐村の人家は流失し、村人は川辺郡小浜村の地内、つまり武庫川左岸に居住することになる。以前なら、ここで見佐村はふたたび川辺郡に属することになるところであるが、所属郡の変更は以後明治に至るまでおこなわれなかった。それは正保国絵図によって国郡界が確定したので、以後は容易に変更できなくなったためと解されよう。なお同村は一七世紀中ごろ川辺郡小浜村地内に定着した地理的事情から、明治二十二年四月一日になって川辺郡に編入された。