両郡にまたがった川面村

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 見佐村のほか、さらに所属郡のことで問題になるのは川面村である。川面村は有馬街道にそって安場村の集落と入りくんで村並みのある上川面と、街道の南、荒神川をはさんで東西にのびた下川面(本郷)とに集落がわかれていた。結論的には、村高の一部である上川面が川辺郡に、村高の大部分を占める下川面が武庫郡に属していたと考えられるのであるが、後に述べる享保七年(一七二二)の史料のほかは、古くからすべて村全体を武庫郡に属するものとして扱っている。古い例としては、元和三年(一六一七)の「摂津一国高御改帳」ならびに尼崎藩戸田氏の知行目録とも、川面村についてはつぎのようにふたつに高を分けてはいるが、いずれも武庫郡のなかに記入されている。二五五石余の分が下川面、五七石余の分が上川面の高と思われる。
 
 〈摂津一国高御改帳〉  御蔵入建部与十郎預り
 弐百五拾五石五斗六合    川面村
             同
 五拾七石壱斗六升七合    同村
 〈尼崎藩戸田氏知行目録〉
 一高五拾七石壱斗六升七合  河屋村(川面)
 一高弐百五拾五石五斗六合  同村
 
正保三年(一六四六)の正保郷帳になると、右の村高が一本化され、三一二石六斗七升三合としるされ、ほかに新田高として二〇九石三斗四升六合が記入されている。
 所属郡の問題にはいる前にその後の村高の推移をみておくと、川面村は元和三年七月以来尼崎藩領となっていたが、この尼崎藩領(寛永十二年からは青山氏)の時代寛文二年(一六六二)に本田の検地をうけ、本田検地高は三五六石一斗二升九合となった。正保郷帳にしるす村高より四三石四斗五升六合の増加であった。尼崎藩青山氏は川面村にかぎらず、寛永十五年(一六三八)ごろから寛文年間にかけて村々の検地をおこなった。領域の全村でおこなわれたわけではないが、その間にかなりの村々で検地をおこなっている。そしてこの村々の検地が一段落した寛文四年七月、青山氏は新しい検地高を本高とする旨を令達した。川面村の検地帳は、天保十四年(一八四三)の村明細帳によればすでに焼失しており、現在その内容をみることはできないが、尼崎藩領であった村々に現存する寛永~寛文期の検地帳をみると、その末尾にかならずつぎの文が加えられている(返り点を付した)。
 
  村中田畑広狭有付て無甲乙御検地打出有之候所、寛文四年六月従 公儀右打出之分本高御直郷帳目録御奉行衆より御渡候て、自今已後此帳面之通名寄帳御年貢御認納所可仕者也
 
寛文四年六月に幕府から村高変更の許可をえたので、検地による打出し分(高の増加分)を本高にくり入れる旨をしるしたものである。このように尼崎藩青山氏は二〇年にわたる検地の締めくくりとして、寛文四年に本高の修正をおこなったわけで、川面村の村高もここで三一二石六斗七升三合から、寛文二年の検地高どおり三五六石一斗二升九合に修正されたと考えられる。
 青山氏はその後延宝八年(一六八〇)川面村の新田検地をおこない、正保当時二〇九石三斗四升六合であった新田高も二五一石七斗五升二合に改めた。本田・新田合わせると高は六〇七石八斗八升一合となった。その後元禄二年(一六八九)・三年・五年・八年・十年、宝永四年(一七〇七)・五年と年をおって新田の高入れをおこなったが、これはいずれもごく零細なもので、合計しても数石にすぎなかったようである。尼崎藩の川面村領有は宝永八年で終わるので、同藩による新田検地も宝永五年で終わっている。
 宝永八年(正徳元)川面村は直領となったが、村高は尼崎藩領時代のそれを踏襲した。ただ新田高を本田と合計して村高とすることによって、川面村の村高は六一三石六斗九升六合となっている。
 

写真140 川面宮町付近


 
 以上川面村の村高の変遷をたどったが、享保七年の一文書に六一三石余の村高のうち七二石二斗二升について、これを「川辺郡上川面村」の村高とし、「残五百四拾石四斗七升六合ハ武庫郡本郷川面村ニ御座候」としるしている。この文書以外の諸史料は全村武庫郡であるとしているが、上川面は川辺郡安場村と入り組んでおり、右の文書のとおり、やはり前から川辺郡に属していたとみるのが妥当のように思われる。
 さて川面村が両郡にまたがっていることが享保年間代官の知るところとなったため、まもなく全村を武庫郡に帰属させることになる。元文元年(一七三六)の一文書につぎのような記述がある。
 
  川面村之義村高先年迄ハ武庫郡・川辺郡と両郡高書分ヶ差上申候処、去寅(享保十九年)五月ニ宇治御代官様より御尋被遊候て大坂御番所様へも御訴仕、其後村高一所罷成只今ニてハ壱郡ニて村高六百拾三石六斗九升六合武庫郡川面村と斗仕候
 
これによって享保十九年(一七三四)に一村全体が武庫郡に属することになったことが知られる。
 川面村の所属郡について大上段にとりあげたが、武庫・川辺両郡にまたがったといっても、それはわずかに川辺郡にくいこんでいたにすぎず、それほど大きな問題ではないという結論しかでない。しかし見佐村の項で述べたように、正保国絵図の作成で確定した郡境が一部にもせよ変更されたことは注目されよう。郡境がいったん決まったあとは、その変更は容易なことではないが、直領なるがゆえにとくに認められたというところであろうか。