さきに幕府によって慶長十年(一六〇五)全国にわたって国絵図の作成がなされたことを述べ、現存する同年の摂津国絵図によって市域の村や道筋の様子について述べた。この慶長の国絵図の作成についで、幕府は正保元年(一六四四)十二月、大目付井上政重を惣奉行とし、諸大名に命じて領国の絵図を提出させたうえ、諸国郡絵図(正保国絵図)を作成し、あわせて諸国郷村高帳・諸城絵図を作成するよう命じた。
国絵図の作成については、二七条からなる「御絵図目録」を定めて作成基準をしめした。その目録には、正保郷帳の作成提出を命じたほか、村・村持ち山・一里塚・本道・脇道・川口・名ある山・渡し場・山中の難所・国郡境・道のりなどを記載するよう指示している。幕藩体制がほぼ定着した正保という時期に、国絵図・郷帳・城絵図の作成を命じ、全国の土地所有権が幕府に帰属していることを再確認しようとしたものとして注目される。
つぎに現在国立公文書館(内閣文庫)に残っている旧徳川幕府所蔵の正保二年の摂津国絵図によって市域の状況をみてみよう。さきにふれたとおり、武庫郡の部分が欠けているので川辺郡に属する市域の様子しかうかがえないが、慶長の国絵図に比べていくらか新しい点をみいだすことができる。道筋に関しては、慶長の国絵図では小浜―米谷―安場―生瀬の道筋に一里塚があったにとどまるが、正保では市域の北と南を結ぶ唯一の道路である切畑―満願寺―平井―口谷の道筋にも一里塚の記載がみられるようになっている点が変わっているところである。北方へは切畑から境野・大原野村を経て木器(こうずき)など高平の村々を通って丹波へと通じるこの道筋がしだいに重要性を増したことが知られる。なお一里塚のしるしがあるところには、そこから最寄りの村への道のりを此間何町何間というふうにしるしている。
村名では切畑村が北畑・南畑に分かれ、さらに枝郷鳥ヶ脇村が「小村新田村」としてでていること、寛永十九年(一六四二)山本村から分村独立した平井村が山本村と別にしるされていること、国郡界がしるされていることなどが、目新しい点である。それ以外には、慶長国絵図と比べてあまり大きな変化はみとめられない。
幕命によって作成された国立公文書館所蔵の正保国絵図のほかに、竹田市立図書館所蔵の正保国絵図があることはすでに述べた(三一六ページ)。この方は、さきに述べた見佐村をはじめ武庫郡に属する市域村々もえがかれている。そして村々には領主名がしるされていること、中山寺など名所・旧跡・名刹(めいさつ)をえがいていること、全体として国絵図を比較的小さな絵図にきれいにまとめていることが注目される。ほかにアクラ(安倉)ノ内としてふたつの枝郷が、米谷村のうちとしてひとつの枝郷がしるされていること、さきの正保国絵図に小村新田村としるされていた村は鳥ヶ脇新田としてでていることなども付加しておきたい。